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自由気ままでアホ丸出しのエッセイと稚拙な創作物(小説)を載せています。  時間の許す限りお付き合いください。
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とあるブログに載せていた文章をサルベージしたので、それを載せようと思います。時期にズレが生じているので、ところどころおかしな点がありますが、そこには解説を加えることによって問題を解消しようと思います。解消できているのかどうかは……知らない。

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けっこう前からmixiというものをやっている。

とは言っても、僕はリアルの世界でも友達が極端に少ないし、そもそもネット上で友達を作ってもしょうがないと思っている人なのでそんなに躍起になってやっているわけではない。

いるじゃないですか、そういうのにハマって、毎日のようにパソコンをチェックして、しょうもないメッセージが届いたかどうかを確認して、またしょうもない文章を送るような人が。

僕はそういう人間は嫌いだし、なりたくないからそこまでmixiというサイトの機能を思う存分使うなんてことはしない。

僕がやっているのはただ日記を書いて、他の人の日記を読むだけである。それ以上のことはしない。

僕は対人スキルが著しく低いので、ネット上であっても良好な人間関係を築き上げられるとは思ってない。どうせ無理だ、と諦めている。

だからと言って、「大丈夫だって、ほらやってごらんよ」なんて言われてやるのは気にくわない。

僕がそう言ったからと言って、別にコンプレックスを感じているわけではないのだ。僕は対人スキルが著しく低いのが僕なのであって、厳密に言えば、一杯友達がいる僕なんて僕ではない。それくらい僕には友達が少なく、またそれが当たり前の生活を送っているのだ。

断言できるけど、友達がいるヤスはヤスではない。友達がいないというファクターもヤスという人格形成に一役買っているのだ。

とまぁ、何だか話がやっかみ半分になってきたけれど、ケンカをふっかけているわけではなく、単に僕の思考を簡単に文章に表しているだけで----と書いても何の気休めにもならないな。どう取られてもいいけれど、僕はケンカをふっかけているわけではないんですよ。


閑話休題。僕がmixi上でどんなことを書いているのか、である。

僕は元来文章を書くのが好きで、色々なところで色々な文章を書いている。

一応断っておくけれど、文章を書くのが好きというだけで、書いている文章が面白いとかそういう話ではないので悪しからず。

今はこのサイトで書いている文章をメインにして、ほとんどのネタはこのサイトに投入している。

でも、最近思うのだけど、ブログの文章を書くよりかは、mixiの日記を書くことの方が簡単になってきた。なんとなく、mixiの日記の文章は簡単に浮かんでくるんだけど、サイトの文章は少し捻らないと出てこなくなってきた。

どういう原理で簡単になったのかは分からない。ただ多分、気軽に書けるのがmixiの日記なだけだと思う。


僕は大体書きたいときに書きたいものを書いている。それが真っ当な趣味と呼べるものだと思う。趣味を日課にしたり、義務にしたりしてはいけない。やりたいときにやりたいことを、これが趣味の醍醐味であると僕は考えている。

書き方に関して書いた原稿が確かどこかに載せたような気がするのであまり詳しくは書かないけれど、とにかくmixiで書く文章とこのブログで書く文章は変えるようにしている。

文体とか書いていることなんかはあまり変わってないけれど、僕はこれらの文章を書く上で確かで、それでいて明確な違いを設けている。

言葉で簡単に表すと、このサイトで書く文章はエッセイ、mixiで書いている文章は日記、ということになる。(※この文章が書かれたときにはまだブログで日記を書いていない頃でした。今は書いています)

簡単に表すとこうなるのだけど、そこにははっきりとした違いがある。

僕がこの文章を書くときは、僕の自室にあるノートパソコンで前途の書きたいときに書きたいものを書いている。そしてフラッシュメモリーにそれを保存して、しかるべき時にしかるべきものをアップしている。これが僕のブログの文章の書き方。

mixiの文章を書くときは、あれはあくまで"日記"なのだ、とちゃんと意識して、ネットに繋がっているデスクトップパソコン(これは家族での共有のパソコン)でその日のうちにアップする文章をその場で書く。そして、ここは日記として一番こだわっていることなのだけど、mixiの文章を書くときには必ず最近起こったことを書くようにしている。例えば、病院に行っただ、とか花火を見ただとか、そういう最近起こったことを鏤めて(ちりばめて)僕なりの文章で書いている。ささやかなこだわり点である。これが僕のmixi上の日記の書き方。

つまり、その場その場で書いてアップするか、一度保存して後日またアップするかの違い、それと日々に起こったことを書いてあるかの違いだ。

これが僕の考える"日記"と"エッセイ"の違いだと思っている。

僕はそんなに器用な人間ではないので、文章構成や文体はほとんど変わりがない。

このブログ同様に少し長めの(と僕は思っている)文章を載せている。日記だから短く書こう、とか思わないわけではないが、どうしても僕らしい文章にしようと思うと、ズルズルと長くなってしまう。

僕は良くも悪くも、僕らしいということに執着している。僕らしい考え方で、僕らしい行動の仕方で、僕らしい生き方で生きていこうと思っている。

そういうのはどこから派生されるのかと言うと、思想や思考からそういうものが派生されるものだと考えている。だからこそ、僕は僕の思想や思考を文章という形にして表すものでさえ、僕らしいものを追い求めている。

でも、"僕らしい"というのがどういうものか、明確に分かっているつもりではない。ただ、こういう行動や思想が僕という人間を型作るものであると信じているから、書いているのである。長いこと生きていれば、自分なりの思想を持つことになる。僕も様々な紆余曲折を通じて、年を重ね、自分という存在を認識できるようになった。その一貫として、自分なりの文章を書いていこう、と考えたからこそこうやって文章を書いているのだ。

確かにこんな極端な思想なり思考なりは他人受けはしないと思う。それは認める。

でもね、僕は思うのだけど、僕は今まで色々なことをしてきた。自分のためにしたこと、他人のためにしたこと、色々とやってきて、その中で考え得る限りの地獄と呼べるものすらも味わってきた。

その地獄にいるときに、他人は助けてくれたのだろうか。人間という生き物は、他者と繋がって生きていると言える。それは否定のしようがない真実だ。

だけど、結局のところ、ある一人の問題を片付けるには最終的にはその人が解決しないと何も話は進まないんだ。周りの人間は助言を与えることは出来る。だけどそれはあくまで補助だ。その人の問題を片付ける手助けになるだけで最終的な決定は本人がしなくてはいけない。

僕はどうしようもなく苦しいとき、それを悟った。他人には他人だけが出来ることがあると同時に、他人には出来ないこともある。そう考えると、自分も含めた、人間というものの存在の基盤の脆弱さが浮かび上がってきて、人間とはなんて脆く弱いのだろう、と思う。

そういう悟りを開いてしまったために、僕は他人にどんなことを言われてもあまり気にしなくなった。そんなの気にする方が負けだ。気にしなければ、他者の声なんて無かったことになるんだから。

だから他人受けしなくてもいい。確かな存在であるからこそ、僕は確かな"自分"というものの存在をこの肌で感じたいのだ。その確かな自分というのが、僕が書いている上で根元となっている"自分らしさ"だと思っている。

僕には僕にしか書けないものがある。僕だから書けるものもある。それは、僕という人間が存在しているから書けているのであり、僕という人間のレーゾンデートルでもあるとも考えられる。

 

何だか話が凄くややこしくて難しいことになってしまったけれど、つまりは僕は"僕らしさ"を追い求めているというだけの話です。そんな文章が書けたらいいなぁ、という妄想である。実際こうやって自分の思想を文章に置換していると、自分という人間が見えてくるような気がする。だから僕はこうやって文章を書くのが好きなのだ。

僕は僕らしく出来ているものが好きだ。もしかしたら僕が唯一自分らしく振る舞えるのはこの文章を書いているときだけかもしれない。

安息の地はここにある。

 

mixiでもこんな文章を書いているので、探そうと思った方はどうぞお探し下さい。Catch me if you can.(捕まえられるものなら捕まえてみな)

ちなみに、mixiで書いた文章をここにアップすることは原則的にしません。ログをとってないし、mixiはmixiオリジナル作品。ブログはブログオリジナル作品という考えで書いているので。悪しからず。

メリークリスマース!!(※この原稿が書かれたのは12月24日でした)

いつの間にやらもう12月も、いや、2006年ももう少しで終わりと言う地点まで来てしまった。いやはや、今年は本当に時間の進みが早かった。そんな中、今年起こったことを振り返ることが出来るとは到底思えない。こんなにもときの進みが早いと言うことは、色々なものを素通りしてきたと言うことだろう。そんな状況下の中で出来るとは思えない。

僕は思うのだけど、大人になる一つのファクターは「ときの移ろいを早く感じる」と言うことだと思う。成人を迎えたから大人になるのでもなく、恋人と一線を越えたから大人になるのでもなく、成長期が終わったから大人になるのでもなく、時間という感覚でしか味わえないものの早さを早く感じたとき、そのときが大人になったということだと僕は思っている。

勿論、成人を迎えたから大人になると言うようなそれらのファクターが完全に違うと言っているわけではなく、確かにそれも一つのファクターであるとは思うけれど、僕からすると、これこそが真の理なのではないか、と。

あまりこういうことを言うと、よく分からないだの、意味が分からないだのと言われるからあまり人に言ったことはないのだけど、僕の友人の中でも最高の頭脳の持ち主、いや多分人間の規格から言っても最高の頭脳の持ち主であらせられるIさんにこのことを言ってみた。

すると、Iさんも「そうそう、そうなんだよなぁ」と同意してくれた。Iさんは自分の置かれている状況上、ときの移ろいは凄く遅く感じているらしいけれど、それでも、「その理論は100%の間違いではない」と言ってくれた。

余談だけど、よく僕の言っている言葉は難しいと言われるのだけど、僕の言葉をよく理解してくれていると思うのは二人しかいない。IさんとI田さんと言う方の両名だけだ。

それと同時に、その二人の話を理解できるのも僕だけだ、と自負している。彼らの言っていることは僕にはよく分かるし、理解も出来る。彼らが僕の話を100%理解してくれているのかの確証は無いけれど、感じとしては80%以上は分かってくれているんじゃないかと思う。

特にIさんは僕と小学生の頃からずっと相棒としているので、よく話が合う。I田さんとは中学の頃からだから、Iさんほど付き合いが長いわけじゃない。だけど、やっぱり二人とも話を分かってくれるし、僕自身もよく分かる。

他の人に僕の考えを話すと、相槌を打つばかりで踏み込んだ話にならないんだよね。そういう人たちが理解しているとは思えない。

まぁ、そんなわけでIさんの話でした。

閑話休題。

だから僕はもう大人の仲間入りである。今年は本当に早く時が過ぎ去って行ってしまった。気がついたら4月だったし、気付いたら夏休みは終わっていた。気付いたら冬休みだし、気付いたらもう今日この日になっている。本当に早い。

"ネットの管理者としてのヤス"と言う観点から今年を振り返ってみると、いくつかの出来事があったように思う。

1月:ゲームのハードを持っていないのにソフトを買った。しかも2回目…。

2月:僕とキクチによるネットラジオ『今日も元気にやる気ないレィディオ』開局。

3月:FFⅩⅡ発売記念で売られていたポーションを買って飲んだ。子供用風邪薬の味がした。

4月:ブログ版『机の引き出し』に移転。後半にキクチとのコラボレーションブログ、『くずこらぼ』管理開始。

5月:キクチが音信不通になり『くずこらぼ』永久凍結。

6月:特になし。

7月:新サイトの着手を始める。

8月:サイト版『机の引き出し』に移転。後半、最後のネトラジをマッシーとやる。砂糖さんと知り合い、知り合って3日で『変人達の"へんなこらぼ"』と言うコラボレーションブログを始める。それにしても、この名付け親は僕なんだけど、他に何とかならんかったのか。

9月:特になし。

10月:サイト版『机の引き出し』での最後の更新。以後放置をした後永久閉鎖。超驚異的更新スピードにより『変人達の"へんなこらぼ"』の更新回数が50回を超える。記念にいくつかのことをすることを約束。

11月:約束をしていた記念イベントを実行する。後半、また新たなブログ『安っぽい世界』に移転する。奇しくも僕の誕生日の日に移転した。

12月:マッシーが開局したラジオ放送に助っ人として出演する。僕もラジオをまたやろうかな、なんて思ったけれど、多分頓挫するだろうな。ちなみに、マッシーのラジオは一回限りらしい。まぁ、開始2分で助けを乞うようじゃそれもそうだよな。

こうやって振り返ってみると、この1年も結構色々とやってきたようだ。そうか、ラジオを開局したのは今年のことだったか、2,3年くらい前のことだと思っていたけれど。それに、今尚続く砂糖さんとのコラボレーションブログも今年の夏だったか、2,3年くらい前だと思っていたんだけど。

と、大人である僕は「今年も早いなぁ」と思うわけです。ちなみに、これはネット上のヤスのことなんだけど、リアルの僕はもうちょっと色々とありました。書く気にはならないけれど。それに、僕はあまりオフでのことは書きたくない。

よくブログで、毎日毎日自分に起こったことを書く人がいるけれど、僕としてはそういうのはなんだか違うな、と思う。

いや、別にそうやって書くことが悪いとか言う気は全くない。むしろ、そうやって日記というものを書けることが凄いと思うくらいだ。僕は日記を書くのが苦手なんだ。最近では意識的に書くようにしているんだけど。

でも、こうやって日記っぽいものを書いていると、僕が日記形式を書くのは何だか少し違うな、と思う。今まで全く書いてこなかったからかもしれないけれど、何となくしっくりこない。喩えて言うならば、声優が変わったドラえもん……とでも申しましょうか。時間の移ろいで流れも態勢も確実に変わってしまったんだけどしっくりこない、とそういうことだ。

それでも、更新頻度を上げるのには日記調の文章を書かないと、僕はすぐに更新をしなくなる。

いつの日にか、僕がどういう思考プロセスで更新をしなくなるか、と言うことについて考えたことがあって、結論としては、「昨日書いたからいいや」と言う考え方が起因しているのではないか、と考えた。

と言うのも、僕が更新するか否かの判断基準というのは、近いうちに書いたか書いてないか、と言う実に曖昧な判断基準しか持ってなくて、「昨日書いたからいいや」と思って次の日に回す。次の日は「最近書いたからいいや」と思い、また次の日も「最近書いたからいいや」と思っていくと、結果として、1週間くらい丸々と何も更新しないという状況になるわけだ。その究極型として、とあるブログでは1ヶ月間丸々と何も書かなかったときもあった。

その状況を打破しよう、と思って辿り着いたのが、日記調の文章を書こう、と言うことだった。それで、実際に日記調の文章を何とか書き始めてやっていくうちに1週間に1回、もしくは2回は更新できるようになった。管理者としても万々歳である。

でも、頭の隅にある、「これでいいのだろうか」という問いは払拭できなかった。

それでも、日記調の文章というのは書いてみれば、まぁ、出来ないわけでもないからいいや、と言う思考に行き着いたので最近は日記調の文章を書くことを心がけている。なかなか難しいんだけどね。だから、そういう文章が書ける人というのが正直凄いと思う。

そんなわけで、今日はクリスマスと言うことで、クリスマスに起こったことでも書いたらいいや、と思っていたんだけど、結局何もなかった。いつもと同じ、何も変わることがない一日を過ごして終わりだった。代わり映えのない人生。

大学の仲間に「クリスマスなんて俺には関係ないよ」と言ったら「俺も俺も。だって俺、仏教徒ですから(笑)」というパンチの効いた冗談を言っておりました。そういう冗談、僕好きですよ。

大体に於いて、記念日と言うのはほとんどが恋人同士のためにあるようなものばかりだ。やれクリスマスだ、やれバレンタインだ、やれ花火大会だ。今のほとんどの記念日と言うのは恋人同士のためにあるものばかりだ。

幸せなことに、何度かそういう記念日を好きな人と過ごしたことはあるけれど、関係ない身になってしまうと、こういうのはカップルのためにあるものなのだ、と思うようになる。そして、そう思うと、正直今のこの社会の体制もどうかと思うけれどなぁ、とも思う。

別に僻んで言っているわけじゃないけれど、ここまで恋人達のためにある記念日ばかりだというのもどうかと思いませんか? たまにはさ「男友達のための日」とか、「女友達のための日」とかあってもいいじゃないですか。今のこの恋人達のための記念日ばかりある社会で、そういう記念日が例え出来たとしても、別に良いじゃないですか。何の問題があるというのですか?

でも、そうやって想像していくと、そう言う記念日が出来たとしても、実際に友達と会う人が果たしているのだろうか。創造主ながらに、うーん……と唸ってしまいますね。

 

思ったのだけど、年を経る毎にそういう記念日は楽しみに思うのだろうか、思わないのだろうか。

子供の頃はクリスマスが来ると楽しみだった。街全体がいつもと趣を変えて映るところや、そこら中で流れているクリスマスソングを聴くだけで楽しかった。でも、今は、左記のような考えに至っていて、「クリスマス? 俺らはキリスト教信者じゃないのが多数なんだけどなぁ」と思っている。

しかし、その反面で、クリスマスと言うのは恋人同士のためにあるものでもあると知り、そのクリスマスを楽しみに思う心も芽生える。

どちらにも否定的な見方、肯定的な見方は存在する。それは勿論人によりけり、と言う問題なんだけど、記念日というのは総じて、年を経る毎に見方が変わるものなんじゃないか、と思う。

それこそが、人が年を重ねると言うことであり、大人になると言うことだと僕は思う。

と言うわけで、新たな大人の判断基準。『記念日の価値観が変わったら大人』。そんなわけで、大人になる判断基準は多くなってくるが、どれもが真の理であるように思える。

大人になることが良いことなのか悪いことなのかは分からないけれど、いつの日にか、子供は大人になるものだ。でも、1年が圧倒的なまでに早く感じてしまうことに気が付くと愕然とする。

「今日一日何をしようかなぁ」と考えていたらいつの間にか夕飯だった、とかね。

そうなってしまうと、もう大人の一員である。

あなたはもう大人の仲間入りですか? こっちにおいで。何も怖いことなんてないからさ。

疑問に思う人はいないかとは思うんだけど、僕は男である。それも少年ではなく、男である。男であるから放っておけば髭も伸びる。

実を言うと僕は一時期髭を伸ばしていた時期があった。まだ高校何年かだった。そのときに、どういう経緯で伸ばそうと思ったのかは分からない。多分経緯なんてものは存在しないのだろう。しかし、僕は男で髭が生えるとは言っても、高校生如きでは、ちゃんとした髭も生えないよな。まぁ、それは今になってから思うことなんだけど。

確かそのときは、三日に一回くらい剃っていれば間に合っていた時期だったと記憶している。今では…そうだなぁ、大事な人と会うという約束がなければ二日に一回剃れば間に合うかな。

でもね、髭を生やすと周りの声がうるさいんですよ。

僕と言えば、周りなんて我関せずに突き進む究極のマイペース男なんだけど、髭を伸ばすとその僕の特性を超越するくらいに周りの声がうるさい。例えば、僕の書いている文章を誰かに見られて、お前の文章なんてつまらねぇよ、これなら道端に捨てられているマンガを読んだ方が面白いしためになるわ、と言われようとも、僕は気にしない。そんなこと言われようが何をどう言われようが僕は僕の方向性を変えない。そんなのいちいち気にしていたらこの世界はやっていけない、と言う自己防衛手段の一つだと僕は思っている。

そんなことを思っていて周りに何を言われようとも気にしない僕だけど、髭を生やすと本当に周りの声がやかましい。髭を生やしていた時期に周りから色々と言われた。「汚い」だの「オヤジくさい」だの「伸びるの早いな」だの「鼻の下は生えないんだな」(僕は鼻の下はあまり生えない)だの「むさ苦しい」だの「気持ち悪い」だの、なんだのと色々と言われた。他にもあるんだ。

僕個人としては、髭を生やしたいと思ってやまないのだけれど、髭を伸ばすとあまりにも周りの人間からとやかく言われて面倒くさいので、髭を伸ばしたいという願望と言う名の炎に理性という水をぶっかけて鎮火している次第だ。

髭を伸ばしていたのは高校生の一時期だけなんだけど、最近は髭も濃くなってきたから今この年でいっちょ伸ばそうかな…と思うんだけどね、やっぱり周りからとやかくと言われるのは非常に面倒くさく、良い気持ちはしない。色々と言われてそれに関して律義に何かを言わないといけないことを考えると、凄く面倒くさい。

伸ばそうとは思っているのだけど、周りからどう見られるのか(と言うか"言われるか"、だね)をもう一度再確認するために、つい先日、コラボレーションブログを共同管理している砂糖さんに、女の子の視点から見る男の髭ってどんなものなんですか、と聞いてみた。

そうすると出るわ出るわ、否定的な言葉の数々。そうか…数年が経った今でも男の髭に関する女性の価値観って変わってなかったのか……と思った。

男の視点から見る男の髭って言うのはある種の憧れの的なのである。僕だけかもしれないけれど、という注釈はつくにせよ、こう、「わしは男ですけんね!」と言う感じで生えている格好良い髭を見ると、あぁ、俺も生やしたいなぁ、と思うものなのです。

それで、自分の髭の質が(濃さとか太さとか長さとかね)よくあるような形の良い髭にならないと分かったときは、「うぅ…男として負けた」と思う。

まぁ、生やしていたのが随分昔だ、と言うファクターはあるんだけど、昔生やしていたときは、ただ単に顎の下にカビが生えたんじゃないの? と言うくらいの髭でしかなかった。僕はテレビを見ないのでほとんど俳優のことは分からないから、具体的に格好良い髭の男優を挙げるというのはできない。残念だ。

海外の俳優だったら簡単に挙げられるんだけどね。例えば、ユアンマクレガー(スターウォーズ新三部作のオビワン役の人)とか、髭の生えている男優の王様的存在、ジョニーデップとかね。でも、確かに格好良いんだけど、それは海外の人だ、と言うファクターもあるので、日本人で髭の男優を挙げたかった。無念。


言うなれば、髭は男の夢、男のロマンである。ここんところ女の方には分からないだろうな。これぞ男の特権である。

僕の友達で髭が濃く生えている男というのは一人しかいない。友達の数自体が少ないというファクターを差し引いたとしても、これは明らかに少ない。他の人達は髭剃りなんて1ヶ月に一回くらいしかしないよ、と言う人が多い。僕の周りには髭人口が少ないのである。

ちなみに、先程チラッと触れたけれど、僕の髭達は鼻の下にはあまり生えないで、顎に密集的に生える。対してその僕が持つ唯一の髭の生えている友達は鼻の下にこう「男ですけんね!」と言う具合に生えている。それを見ると、そんなに生えているのか、いいなぁ、羨ましいなぁ、と思ってしまうのがヤスという男の性である。

それでそいつも大体一ヶ月に一回くらいの割合で剃るんだよね。ちなみに、多分そいつが毎日髭の生えてない姿を保つには毎日…かもしくは少なくとも二日に一回は剃らないと駄目だな。二日に一回でも相当髭が生えると思う。そこのところをそいつは一ヶ月に一回しか剃らないから、そりゃ凄い生えていますよ。

僕はそいつが髭を剃ると、何だかガッカリする。あぁ、剃っちゃったのか…みたいな感じで。

僕からすると、髭と言うのは男の象徴であるんだけど、先程の女の方の意見を総合すると、やっぱり髭の生えている男は汚いし、不潔だ、と思われるんだろう。と言うことは僕の友達もそう思われているんだろうな。うーん、可哀想と言うか髭を伸ばす男としての担うべき業だよな、とも思う。

でも、世間の目(特に女性の方の目)というのは、いい加減というか理不尽なもので、例えば、そこらへんにいる冴えない男が髭を生やしているのは、汚らしい、とか、不潔だ、とか言うけれど、ジョニーデップとかが髭を生やすと、格好良い、とか、男らしい、とか、渋い、とか言うんですよね。

つまり、僕のような埋没している人間はジョニーデップにはなれないわけなのです。別に僕はジョニーデップみたいになりたくて髭を生やしたいわけじゃないけれど、何にしたって、ジョニーデップの髭は許せるけれど、ヤスの髭は許せない、とか言われるんだよね。凄まじいまでの理不尽。これが世界と言うものか。

ジョニーデップみたいになりたくて髭を生やしたいわけじゃない、と書いたけれど、だったら何で僕は髭をそこまで生やしたいと思っているのだろう? ちゃんと文章にしてみよう。もしかしたら何かの機会で役に立つかもしれないし(それって一体どんな状況だろうね)。

書こうかと思ったんだけど、いまいちしっくりくる言葉が見つからない。いや、左記にも書いたとおり「男のロマン」だから髭を生やしたいと書くのが真実なんだけど、それだと抽象的だ。

何て言うんだろうなぁ、女の人が胸が大きくなりたい、と願うことと同じようなものなのかな。僕は女性の価値観と言うものを持ち合わせていないので、いまいち確証はないけれど、色々と聞く分には同じようなものなのかなぁ。

つまりは、自分が持って生まれてきた"性"の追求と言うことだろう。男は男らしくなりたいと願い、女は女らしくなりたいと願う。そういう気持ちって誰の心にもあるものだと思う。でも、その気持ちは幅広くあるんだ。例えば、仕草を女性らしく振る舞いたいと思う人もいれば、姿を女性らしくしたいと思う人がいるように、その気持ちは幅広くある。同様に、考え方を男らしくしたいと願う男がいれば、姿を男らしくしたいと思う男もいるように。

その中の一つとして、僕は男らしく髭を生やしたいと思うのではないだろうか。今の僕の頭の中にあるボキャブラリーの中で僕の願望を的確に表現する言葉はこれくらいしか見つからない。

僕は何だかんだ言っても、男だ。決して女性ではない。だから、多分本能の段階で、男らしさを求めているんじゃないだろうか。いや、もしかしたら男らしさを求めると言うのは予めこの性別で生まれた段階で脳にプログラミングされたものなのかもしれない。

勿論例外はある。皆が皆そうだとは言わない。でも、大多数の人間は自分の性別によるファクターと言うものを頭の中にプログラミングされて生まれてくるのではないだろうか? 女は女らしく。男は男らしく。そういうものなんじゃないのかな。

多分、僕にとって男に出来ることと言うのは、髭を生やすことと筋肉をつけることだ、と言うプログラムがあるんだろうね。僕はそのプログラムを忠実に再現しているんだ。遙か太古から続くプログラム。人間が生まれたときから、いや、地球が出来たときから、いや、宇宙が出来たときから続いている果てしないプログラム。

僕はそのプログラムと言う歯車を回す一つの歯でしかない。でも、歯が一つでも欠ければ歯車は動かない。だから、ヤスという存在は結構重要な存在であるんだ、と固く信じている。古から続くプログラムを僕一人の手で壊していいわけがないものね。


しかし、生やしていた時期に会った知り合いから「ヤスだと分からなかった。どこかのおっさんかと思った」と言われたときには愕然とした。そうか、そう見られていたのか…。でも、逆転の発想をすると、髭を生やしていれば僕だとバレない、と言うわけだろう? 今度から人に会いたくない時期には髭を生やすと言うのも一つの手だ。

何はともあれ、髭を生やしたい。出来れば形良く生やしたい。カビみたいなのじゃなくて、形良く生やしたい。でも、生やすと周りからのパッシングがうるさい。

このフラストレーション、そう易々とは発散できやしない。

★★見(ちゃっ)た人は絶対してください★★

〇携帯電話の「あ」から「ん」までを入れて出てくる予測変換ワードを書いてください

〇あなたのプライバシーがだだもれです。(笑)

僕のような反抗的な男は、だったら携帯に予測変換がない人はどうしろと言うのだ!差別だ、携帯の機能差別だ、なんて思ったりもするんだけど、そういうのはやっかみなので気にせずに。

と言うか、こんな予測変換ごときでプライバシーなんて言われたらたまったものじゃないよね。こんなのプライバシーの欠片にもならないような気がするんだけど…。もっとさぁ、他にあるだろう?


あ…合わせて
い…以上
う…嘘
え…得られない
お…終わった

か…回
き…決まる
く…来る
け…検索
こ…後期

さ…サボる
し…身体
す…数
せ…説明会
そ…そういえば

た…大変
ち…近付く
つ…着く
て…点数
と…特急

な…~
に…日
ぬ…盗み
ね…熱
の…乗って

は…半
ひ…人
ふ…分
へ…変更
ほ…ホントに

ま…枚
み…見る
む…迎え
め…面倒
も…文字

や…休む
ゆ…夢
よ…余談

ら…ラグビー
り…リテラシィ
る…るし
れ…レポート
ろ…論

わ…(笑)
を…
ん…んじゃ

特筆すべきは『る』の文字。この言葉を何に使ったのかがまるで分からない。一体そのときの僕は一体なにを思ってこんな言葉を使ったのだろう。そんなことを想像してみた。

これだけじゃ芸がないから、これらの言葉を全て使って、文章を書こうかと思ったんだけど、思った以上に面倒くさかったから辞めた。僕は何かお題を出されて書くというのは好きだけれど、これはいくらなんでも多すぎる。途中で何を書いたか分からなくなるだろうから辞めた。本当だったら書きたいところなんだけど、三分の一、もしくは多くても半分に減ってくれないと出来ないよ。

というわけで、オチもなくこのまま終わるわけです。

 

後日付記:

最近、機会があって僕の昔のブログの過去ログを見た。

大体、1年~2年くらい前の過去ログを見返してみたんだけど、今とは雲泥の差とも言えるくらいに書き方が違っていた。昔のは昔のなりに味があるなぁ、と思った次第である。

書き方の変遷はどういう経路を辿ってきたのか、大体覚えているから良いんだけど、着目したところはそこだけじゃなく、更新頻度の面にも着目した。

1年前のこの時期、僕のブログは週に2,3回更新されていた。しかも、今ほどじゃないにしろ、結構な分量の文章を1週間に2,3回も更新していたことが分かった。当時の分量は今の分量の3分の2くらいかな。

1本あたりの文章量が違うとは言え、1週間に2,3回も更新しているのは凄いと思った。今の僕なんて10日に1回くらいなのにね。僕の中にはちゃんと更新する血も流れていたのか、今の僕からは考えられないな、と思った。

こうして、僕の文章の歴史を振り返ってみると、昔の僕に学ぶところは多くあったのだ、と言う内容の付記でした。


さらに後日付記:

携帯でこのブログを見ると、文章が上手く改行できていない、と言う問題を解決しておきました。

僕の使っているノートパソコンが昨夜未明、意識不明の大重体となった。

何故か知らないけれど、電源ランプがつきっぱなしになったまま全く動かなくなった。

この事態に僕はとんでもなくショックを受けた。普段の僕と言えば、ポジティブの塊のような男なのだけど、そのときは本当にネガティブになり、大きなショックを受けた。

立ち直れなくなりそうだった。


そして、今日学校から帰ってつけてみると、なんと正常に動いた。

ぃやっふぃぃぃぃ!!お前は俺を裏切らなかったか、と思ったね、ホントに。

いやはや、もうあんな思いは二度とゴメンである。

まさしく天国から地獄への急転直下、その後に地獄から天国へ急上昇である。スペースマウンテン顔負けのスリリングな事件であった。

I have a cold.

どうして人間と言う生き物は風邪をひくのだろうか。僕は動物のことに詳しいとは決して言えないからよく分かってないんだけど、何となく犬にも風邪ってありそうだし、猫にもありそうだ。

だけど、犬や猫が風邪を引いているところは僕は見たことがないし、人間みたいに色々な諸症状が出る姿を想像することすら出来ない。よく分かってないけれど、あるんですかね。僕の仮説は正しいのか、僕は無知なのか。今さら子供電話相談室に相談できるような年齢でもないしなぁ…。

「たかが風邪、されど風邪」と言うように、風邪を甘く見てはいけない。風邪で命を落とす人もいるわけで、もしかしたら明日は我が身かもしれない。そうならないように気を付けたいとは思うけれど。

でも、ここまで圧倒的なまでに種の進化を果たしてきた我々人間が、"たかが風邪"をひくのは一体どうしてだろうか。確かに風邪は"されど風邪"であるが、粗方の人間の大部分は"たかが風邪"程度で済んでいる。

僕は思うのだけど、風邪に何故気を付けなくてはいけないかと言うと、"たかが"と"されど"の間に生じている激しいギャップにあると思う。

"されど風邪"がなかったら、そんなに気を付ける必要はないんじゃないだろうか。だけど、誰でも簡単にかかる軽い"たかが風邪"と、生命に関わるほど重い"されど風邪"が同じ『風邪』と言うカテゴリーの中に、まるで塩とコショウのように混ざっているから怖いんだ。

"たかが風邪"は本当に大したことがないものだと思われている。まるで擦り剥いた傷が如く軽く扱われる。"されど風邪"は生命に関わるだけに物凄く危険視される。まるで、1と100を較べるかのようなものだ。しかし、1も100も同じ風邪であることには間違いない。だからこそ、風邪には気を付けなくてはいけないんだ。


僕も、大体年に1~2回くらいは風邪を引く。大体が、11月~2月辺りにこじらせるんだけど、その時期にこじらせないと、ツケが後々回ってくることになる。

どうやら僕が風邪を引く回数というのは決まっているらしく、去年風邪をひかなかったとしたら、今年は風邪をひく回数が多くなり、去年風邪が多かったら、今年は少なくなる。もしくは、去年と今年が少なかったら、来年は凄く多くなる。と言うように、絶対数的には変わりはない。あたかも、まるで質量保存の法則のように。

僕は去年は風邪らしい風邪を一度としてひかなかった。だからか、今年はよく風邪をひいた。覚えている限りでは、今年は今現在の風邪を含めれば、3,4回目だ。それもこれも、去年全く風邪をこじらせることなく、のうのうと生きていたから。ツケが回ってきたんだ。確かどっかのブログで、今年何回か風邪について書いた気がするから、やっぱりそれくらいはひいていることになる。

僕が風邪をひいて一番最初に被害を受けるのが、喉。とにかく咳が非道くなる。鼻水はそれほど無いんだけど、その分咳が非道い。僕の咳を客観的に見ると、何だか咳と一緒に内臓まで出てきてしまうんじゃないのだろうか……と心配に思うくらいに咳が非道い。

半年ほど前に風邪をこじらせたとき、大学の講義を受けていたら、先生から「大丈夫?」と聞かれた。先生と言っても、小中高のように担任制じゃなく、講義制であるから、あくまで"先生"と"たくさんの学生"、と言う関係の中、僕は個人的に「大丈夫?」と聞かれたのだ。

本当に咳が非道くて、その応答も「だいゲホッゴホッ、じょうゴホッぶ、です」みたいにほとんど日本語として扱われないくらいの応答しかできなかった。

さっき、客観的に見て、と書いたけれど、自分で咳をしていて主観的に見ても、何だかこのまま内臓まで飛び出してくるのではないだろうか、と思う。本当に咳が止まらなくて、泣きつきたくなるくらいに勘弁して欲しい。

咳が物凄く非道い代わりに、他の症状はそれほど非道くはない。鼻水もあまり出ないし、腹を崩すこともない。悪寒がするわけでもないし、熱もそんなに出ない。

熱もそんなに出ない、と書いたのは確かにその通りなんだけど、もう一つ裏の意味がある。

実は僕は熱が出ていたとしても、自覚症状が全くないのだ。自分としては、普通の体調だと思っていて、よし、今日も頑張るぞ、と思っていたところに親兄弟などに、「アレ?熱あるんじゃないの?」と言われる。僕としては、そんなバカな、と言うんだけど一応測ってみると、本当に熱が出ているんですよね。

僕でさえ気付かない熱に気付く親兄弟も凄いけれど、親兄弟ですら気が付いた熱に気付かない僕もある意味合いでは凄いと思う。

頭は痛くないし、悪寒もしない。身体が熱っぽくなっている雰囲気すらない。だけど、実際には熱が出ている。逆に、頭が痛くて、やけに悪寒がして、身体が熱っぽくなっているなぁ、と思うときに限って熱がないことがあったりもする。一体僕の身体はどうなっていると言うのだ。我が身体ながら不思議である。

さすがに38℃とか39℃出たときには自覚症状はあるけれど、38℃以下の微熱くらいのときにはほとんど自覚症状がない。

と言うか、それすらもケースバイケースでしかなく、中には38.6℃出ているのに普通に生活していたときもあった。

そのときも、親に「あんた熱あるよ」と言われたので、そんなバカなことが、と思って一応測ってみたら、38.6℃も出ていたから、CDを買いに行くのをやめて病院に行って来た。勿論、熱が出ていると分かっても、僕には自覚症状が全くない。

不思議なものである。病院とは、病気となって病気っぽいから行くところであるのに、僕は病気っぽくないのに病気をこじらせている。変な話だ。

それで、病院に行くと、まず熱を測ってくれ、と言われて熱を測って、体温計を看護士さん(と書かないと最近は怒られるんだよね)に渡すと、「はい、あなた3番の部屋で、ベッドに寝て待っていてくださいね」と言われた。言うとおりに3番の部屋に行くと、人の気配が微塵も感じられないくらい誰もいない、離れの部屋だった。僕は隔離されたのだ。

それから20分くらいそこでボケーっと寝ていると呼ばれて、診断してみると、インフルエンザではないけれど、まぁ、風邪だろ、と診断された。医師に、僕としては自覚症状がないのですが…、と言うと、「君はバカじゃないの?」と言うニュアンスのことを言われた。

僕は熱に関しての自覚症状がまるでない。それはまるで、僕の住んでいる世界の外で起こっているもののように。

何というか、僕の精神----と言うより人格----はアホだけど、その精神のアホさに負けないくらいに身体の方もアホであるかのような気さえする。つまり、僕の精神と身体は合致していると言うことで、心身一体と言うか、何というか。

ここまで、僕の精神を色濃く反映してくれる身体を持って、また、僕の身体を上手く誘ってくれる精神を持って、僕は満足です。

それ以上を求めない。僕は、今あるものだけで充分だ。そんなね、無いものを自分の身体にくっつけようとしたって出来るわけがない。人間には持って生まれてきたものがあり、僕はその持って生まれたもの、今の状況を自分なりに解釈し、受け入れ、認めている。それだけで、僕の人生は救われるような気さえする。

でも、公共の場で非道い咳をするのは、心苦しいものがあり、そればかりは他人によってのみじゃないと救われないものでもある。本当に申し訳ない気持ちで一杯です。風邪の何が辛いって他人様も巻き込んでしまうというところだよね。咳をする度に僕のような小心者は、「うっ、すまねぇ…」と思いながら咳をしているのだ。なんて威張れるものじゃないし、何の気休めにもならないけれど。

 

それにしても、ここまで進化してきた人間があんな簡単に風邪をひくのは何でだろう? という冒頭の問いに対して色々と考えながらこの原稿を書いていたんだけど、僕には一つくらいの考えしか思い浮かばなかった。

それは、『圧倒的なまでに進化を果たしてきた人間だからこそ、簡単に軽い風邪をひいてしまう必要性があるのだ』ということ。

進化をしてきて、それに適応するために強い肉体を作ってきたわけだけど、全世界的に見て、完璧なものは存在しないからこそ、地球は、簡単にひいてしまう風邪で肉体への警告の鐘を鳴らして、注意すべしだと言っているのではないか、と僕は考えたのだ。

ようは、進化して自惚れるのではなく、この地球で生きていく上では注意する心が必要なのだ、と言うことではないだろうか。

それだったら、簡単に風邪をこじらせてしまうことも分かるし、その風邪の中でも"されど風邪"と言うものが存在しているのも分かる。風邪は人間への警告の鐘だ。忘れてはならぬという戒めだ。地球は僕たちに対して親切であると同時に凶悪でもある。その心を忘れるな、僕にはそう言っている気がする。

と言うことは、今僕が風邪をひいているのは、僕自身がどこかで慢心していたということにもなりかねない。言われてみれば確かにその通りのような気もする。風邪とは"カルマ"なのかもしれない。もしもそうなら、僕は自分自身の業を受け入れなくてはならない。それが、"カルマ"であり、"風邪"である。


それはともかくとして、市販の薬を買おうと思って近所の薬屋に行って来たんだけど、風邪薬って高いのね。30錠で1500円オーバーもする。おいおい、1錠50円かよ、と本気で思った。そのくせ、市販の薬ってあまり効果がないように思えるのは僕だけだろうか?

もしかしたら、それも踏まえて"カルマ"なのかもしれないな。

地球って惑星は、よく出来た惑星だぜ。

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