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自由気ままでアホ丸出しのエッセイと稚拙な創作物(小説)を載せています。  時間の許す限りお付き合いください。
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先日旅行に行ってきました。

えーと、何とも説明が面倒くさいんだけど、3泊5日で旅行してきた。どういうわけかはそれぞれが考えてください。説明がすごく面倒くさい。

しかし、旅行に行くのはかなり久しぶりで、それも家族以外とこんなにも長い旅行するのは僕の人生を振り返ってみても初めての体験だ。何でかって僕には友達も恋人も先輩も後輩もいなかったから。いや、先輩と後輩は今もいないけどさ。

だからまぁつまり、一緒に旅行に行く相手なんていなかったってことだ。


今回の旅行の目的地は大阪と京都。

どこに行くか協議をした結果、満場一致で(とは言っても僕含めて二人なんだけど)即決された案が大阪と京都の二箇所だった。それに大阪と京都の間は電車で一本で行けるので利便性が高いのも決め手となった。

大阪では僕の大好物であるたこ焼きを食べまくり、京都では中学の修学旅行では行けなかった寺院を巡る、と言うのが今回の旅の大きな目的だった。

まずは大阪。

USJ(ユニバーサルスタジオジャパン)の近くにあるたこ焼きミュージアムと大阪の道頓堀の二箇所で思いっきりたこ焼きを食べ尽くした。一人2,30個は食べたはずだ。

でも、僕がたこ焼き好きというファクターを抜きにして考えても、大阪の各種のたこ焼きを食べ続けたとしてもたこ焼きが飽きるということはあり得ないと思う。それぞれの店にはそれぞれの店の特徴があり、一つとして同じ味のたこ焼き屋はなかった。

皮が違う。中身が違う。焼き方が違う。ソースが違う。

味は当たり前だけど、香りも、見た目も、歯触りもまったく違う。

これぞたこ焼きの真髄だと思う。いやぁ、やっぱり大阪ってすげぇや。

とは言っても、たこ焼き以外のものもちゃんと食べた。

お好み焼きも食べたし、うどんも食べたし、ラーメンも食べた。いやはや、それだけ食べるともう食べ物を見るのも嫌になってくるくらいに腹がふくれる。僕は生まれて初めて食べ疲れたと言う状態になった。これなら確かに食い倒れるわな。

ちょっとだけ驚いたんだけど、東京で言う"suica"は関西では"icoca"って言うんだけどそれらに互換性が多少はあったことが驚いた。でもまぁ、原理と会社を考えればおかしな話ではないんだけど、何となく驚いた。

僕はそういう互換性の発見が結構好きなのです。例えば、このファイルはこのソフトだけでしか使えないと思っていたのが他のソフトでも使えた、とか。

あぁ、まるで理解不能な喩えですね。まぁ、二つの大きさの箱がピッタリとはまってくれた喜びのようなものです。

それはともかく、先ほども書いたけれどたこ焼きミュージアムはUSJの近くにあって、ついでだからと僕らもUSJの方まで行ってきた。

それがどれほど屈辱的か。なかなか伝わらないと思うけれど、東京ディズニーランドの門の前まで行ったけれど帰らざるをえなかったとか、お台場の観覧車の入り口の前まで行ったけれど帰らざるをえなかったとか、美味しいと評判の店の前まで来たけれど帰らざるをえなかったとか、とまぁ色々と浮かぶけれど、とにかく入りたいのに入れない時のあの悔しさ。

どうしてUSJの前にいるのに「USJ行きてーよー」とか言わなきゃいかんのか。おかしいじゃないか。

そんなことを考えたりもしたけれど、やっぱりたこ焼きを食べられたからハッピー!


京都では色々な寺院に行った。定番中の定番の寺院だけれど、定番なだけに見応え十分だった。

それぞれの寺院のおみくじがあったら極力引くようにした。清水寺では恋愛おみくじもあったしね。

したらば、一番最初のおみくじにはかなり良いことが書いてあって、次が凶(ちなみに大凶はないので凶が一番低い)。次が吉。最後は半吉という振れ幅の大きなおみくじ達であった。

僕は常に自分のことはラッキーな男だと思っている人間なので、おみくじの運勢がどれであろうともラッキーである自分に変わりはないと思っている。

大体凶なんて簡単に引けるものじゃないですよ。そんなごく少数の凶を引いた僕はやっぱりラッキーだし、半吉なんて言う普通のおみくじにない運勢を引いたのだってかなりラッキーですよ。

でも、全部のおみくじに共通して書いてあることがあって、それは『病気は早めの療養が大事』というものだった。確かに僕はちょっとした病気を持っていて、たまにその病気に振り回されることがあるから、「あぁ、確かにそうだよなぁ。病気があることは忘れちゃいけないな」と思った。

考え方を変えれば、かなり良いことが書いてあったおみくじにも書いてあるし、凶のおみくじでも書いてあると言うのは結構数奇な偶然のような気がするし、どのおみくじに書いてあるということは要するにどんな運勢であろうとも僕は病気のことを忘れてはいけないって言う重要な警告であるわけだ、うむ。

大阪は大阪で多かったけれど、京都は大阪を超えるほどに外人の方がたくさんいた。それは東京の比ではないと僕は思っているんだけど、特に京都の寺や神社などには本当にたくさんいて、僕も一緒に行った人も何度か話しかけられた。

僕らが泊まった宿にも半分くらい外人さんがいたんだけど、ある一組の外人さんの宿泊客と触れ合う機会があった。その外人さんは一人はアメリカ人かそこらへんの人とアジアの方だった。

見た目は本当にアメリカ人なんだけど、そのアジアの方と中国語で会話をしていた。二人は中国語の他に英語も話したし、日本語も話していた。聞いたところではもう一カ国語話せたらしい。

本当にすごいなぁ、と思った。僕なんて2ヶ国語も話せないのに。

東京とかでも思うことではあるけれど、京都に行くと本当に英語が話せることの便利さと役立つことを痛感する。僕らに話しかけた人達の中にも英語が母国語でない人達も結構いた。多分フランス語とか、おそらくイタリア語を話していたと思うんだけど、そういう人達でさえも人に話しかける時に英語で話しかけていた。

やっぱり今の世の中英語がスタンダードな言語なんじゃないかな、なんて思う。それに英語が母国語ではない人達はそれなりに英語が話せていた。多分日本人が英語を話すことと欧米の方々が英語を話すのではわけが違うことも思う。

そういうことを京都で感じることが出来た。


しかしまぁ、僕らは二人で旅行に行ったわけなんだけど、他人と同じ宿で何日も寝泊まりをするというのは若干ながらストレスがたまる。やっぱり僕のような男は一人でノソノソと生活をしている方が性に合っていると思うんだな。なんて言うと怒られるんだけどさ。

寝食を共にすると仲の良い相手でも嫌なところが目に付くって言うけれど、それに関しては……えーと、あのー、なんて言うか、諸々の事情で書けません。書くと色々と不利益なことになるだろうし、わざわざ隠すようなことではないけれど、話す必要もないことであろうと思うので書きません。

この書きたいのに書けないもどかしさ、理解してくれますか? でも別に理解してくれなくても構いません(反語)。

どっちだよ、って話ですね。でも、よく言われるけど僕はツンデレではありません。

Not,ツンデレ!

 

それはともかく、色々と思うところのあった旅行であったことは間違いない。きっと僕の記憶の中に残る旅行だ。

でも、旅行記は書かない。

全ての記憶は僕の心の中に----。
 

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突然ですが、告白させてください。

同じ電車に乗っている麗しの背の君へ----

一目見た時からあなたに友情を超えた感情を抱いてしまいま……って告白違いなんでやめます。恋愛の告白じゃない。

僕は昨日、急いでいるからと駅で困っている人を無視して通り過ぎてしまいました……ってこれも告白違いなんでやめます。罪の告白じゃない。

では何か。

僕は男向けに出されている化粧品を買って使ってみることが結構好きなのです----という告白である。

例えば、あぶらとり紙だとか、洗顔シートだったり身体を拭くシートもそうだし、各メーカーのスプレーに始まり霧吹きみたいな形のものとか色々な種類の制汗剤とか、今まで結構な数を買ってきている。

いつからそんなことをやり始めたかと言えば、中学時代から。

僕は中学時代から制汗スプレーを使っていて、その時に身体を拭くシートに出会った。それ以来色々なメーカーのものを使ってきた。中学時代からって結構早いのかなぁ。今だったらそれじゃ遅いなんて絶対に言えないだろうけれど、僕の時代で使っていたのは2,3割くらいだったのかなぁ。

それだけの歴史があると贔屓(ひいき)にするメーカーとかが出てくる。でも、僕は気に入っているメーカーを贔屓するけれど、それは僕個人の好みってだけだからどこのメーカーが良いとかそういうことは書かない。もしも、どこどこのものが好き、なんて書いて店で品切れになったら困るしね。

しかしだ、こういう種類の化粧品の嫌な点と言えば、それは早ければ1年ごとにモデルチェンジ、あるいは販売しなくなるという点だ。

これは結構困る。

「この化粧品は使えるな」とか「この匂い良いな」とか「効果があって良いな」なんて思ってシーズンオフとなり、次のシーズンに来たらなくなっているんだからそれは困るとしか言いようがないじゃないか。ここではモデルチェンジでなくなることも含まれる。

だから僕としては、今使っているお気に入りのもの達がなくならないことをただひたすらに祈るしかない。まるで恋人の体調が良くなるようにと祈る人のように、ただ純粋に、ただ直向きに、ただひたすら祈るだけだ。

僕には祈ることくらいしかできない。僕は無力な人間だから。

僕は友達が少ないってレベルじゃなく、友達がいないので僕くらいの年代の人達が洗顔シート然り身体を拭くシート然り制汗スプレー然り、どんなものを使っているのかまったく知らない。

でも、実のことを言うとそんなに興味がない。聞こうとも思わない。だって、僕は今までの経験を積み重ねて築き上げた価値観というものがあるし、そもそも化粧品のおすすめなんてするものじゃないような気もする。どういうのが良いのかは自分で確かめて知っていく類のものなんじゃないか、とも思うんだ。

それと関係あるかもしれないけれど、僕は普段から男向け化粧品を使っているんだけど、たまに「それは何か」と聞かれることがある。そういう時、僕は正直に答えている。隠す必要はないからね。

そうすると大方の人間は「それは良いのか」とか「どんな感じか」と聞き返す。

例えばあぶらとり紙に話を限定すると、このような会話になるわけだ。

「それ何よ」

「あぶらとり紙よ」

「どんな感じよ」

「あぶらを取る紙って感じよ」

「ちゃんと取れるのかよ」

「取れなかったら使ってないわよ」

あ、いやいや、ちょっとだけ脚色してありますよ、この会話。

うん、「あぶらを取る紙って感じよ」なんて言ったことないものね。そこらへんを脚色してしまいました。

それはともかく、僕は思うわけだ。

この会話は論点がズレているんじゃなかろうか、と。

一昔前、まだ男向けの化粧品が今のように数がなかった時代ならばともかく、男も色々と気を遣う最近の社会の中で、あぶらが取れないあぶらとり紙などあっていいものだろうか。

それは例えば、空気を整えないエアコンみたいな。

それは例えば、すくえないスプーンみたいな。

それは例えば、MDが聞けないMDコンポ(古いですか?)みたいな。

それは例えば、時を刻まない時計のような。

それは例えば、切れないハサミのような。

それは例えば、携帯できない携帯電話みたいな。

それらは、それらが備え持つ当たり前の機能を持った上でまた別の機能なり、更に昇華した機能なりを持っていて然るべきのもの達だ。

つまり、あぶらとり紙はあぶらが取れて当たり前。エアコンは空気を整えて当たり前。時計は時を刻むことが当たり前。携帯電話は携帯できて当たり前。近所の居酒屋の外で騒いでいる人達は警察に通報されて当たり前。近所の居酒屋の外で騒いでいる人達は狙撃されて当たり前。近所の居酒屋の外で騒いでいる人達は急性アルコール中毒とかで倒れても当たり前。っていうか警察に連れて行かれてしまえ。狙撃されてしまえ。アルコール中毒で不幸になってしまえ。本当にうるせぇんだよ。

いやまぁ、話が横道に逸れたけれど、あぶらとり紙はあぶらが取れて当たり前だ。

だから、こういう時はこう言えばいいわけだ。

「あのー、すいません。近所の○○って居酒屋の外で騒いでいる人達がうるさいんで、ちょっと注意なりなんなりしてくれませんか?」。

……うん、もう言わないよ。

だから、こういう時はこう言えばいいわけだ。

「それ使える?」とか「それ効果ある?」とかね。そういうことを聞いた方がしっくりくると僕は思うんだ。


しかし、論点がズレていると言えば、僕が毎度毎度呆れ果てるほどに論点がズレている会話をしている人がいる。本当に論点がズレていて、僕は呆れる。

その人の主張はこうだ。

「たこ焼きにタコが入っていねぇじゃねぇか!」。

あのですね、確かにタコの入っていないたこ焼きは正確な意味合いでの"たこ焼き"と呼べないかもしれないですよ。そういう屁理屈みたいな考え方、よく分かる。でもさ、イカ焼きみたいにイカを丸々焼いているわけじゃないんですよ、たこ焼きって。

たこ焼きにとって重要なのはタコが入っているか否かではなく、たこ焼き全体が醸し出す存在感、たこ焼きが備え持つ小宇宙のような広大多岐にわたるあの存在感なわけだ。

あぁ、意味分からないね。僕も分からない。

つまり、たこ焼きって言うのはただ単にタコを焼いているだけじゃない。確かにタコが入っていることはたこ焼きにおいて言えば最重要なファクターではあるけれど、上述したとおりイカ焼きのような存在とは違うんだ。

たこ焼きというのは、目で見て、耳で聞いて、鼻で嗅いで、噛んで味わい、そして舌で味を確かめるものだ。その五感全てに直接的に働きかける存在こそがたこ焼きなわけだ。しかし、その五感に働きかける役割を果たしているのは断じてタコなどではない。たこ焼きという一つの丸い球体に内包される全ての存在がその役割を果たしているのである。

「たこ焼きにタコが入っていねぇじゃねぇか」って怒るのは筋違いなんだ。だって、タコよりも重要なものがたこ焼きの中には含まれているんだから。理屈としてはなっていないけれど、タコが入っていないたこ焼きだって十分たこ焼きと言い張れると思う。理屈としては本当になっていないけれどね。

それだったら、「この芋はなってねぇ!」とか「このソースの匂いは許せん!」とか「この焼き方には納得いかん!」とか怒った方がとても理にかなっている。

何でも、たこ焼きを味わうと入っているタコに関して文句をつける人がかなりいるけれど、そういうのって論点がズレているよな、と毎回毎回思う。

たこ焼きというのは、あの真円なる形を目で見て、あの焼かれる時に醸し出されるもったいぶって作っていそうな音を耳で聞き、あの香ばしい香りを鼻で感じ、あの丸みに歯を押し当てた時の食感を歯で感じ、そしてタコや芋や小麦粉が奏でるアンサンブルを舌で感じるのだ。

それがたこ焼きというものの真髄であり、味わい方である。こう言われると、「たこ焼きにタコが入っていない」なんて文句を言うのは論点がズレている指摘だと思いませんか?

あぁ、思いませんね。すいませんね、説得力のないわけのわからん文章で。すいませんね。

それはともかく、あぶらとり紙とかで「それはあぶらが取れるのか」と聞くこと。たこ焼きに「タコが入っていない」と文句を言うこと。それらは僕からしてみれば論点がズレていると感じざるをえない。

と言うか、正確に、率直に、正直に言うと、そこは論点にはならないのだ。

多分そんなことを考えるのは屁理屈大好きな僕くらいだとは思うけれど、そういう確固とした主張なり信念なりを持っている人って面白かったり、魅力的であるとは思いませんか?

その返答を僕は聞かない。答えはそれぞれの心の中に存在している。そしてそれは聞くものではない。

でも、僕は恋人にするにはおそらく面倒くさい男だと思いますよ。だって、「たこ焼きにタコが入っていねぇじゃねぇか」って言う一般的な人に反感を覚えているし、場合によっては反論しているんですからね。

あぁ、僕の奥さんになる人は大変だ。

……なんて言うとメチャクチャ怒られるんだろうな、色々な人から。

お久しぶりです。

こうしてちゃんとした文章を書くのは半年ぶりかそれ以上です。

僕の記憶の中で半年ぶりくらいだから本当はもっともっと書いていないかもしれない。いまいち調べようと思わないし、6ヶ月ぶりも7ヶ月ぶりも8ヶ月ぶりも大して差はないだろうからどうでもいいんだ。

何で今までずっと書かなかったか。

それは書く時間と力を失っていたから。

ではなぜ今更になって書き始めたのか。

それは僕の中で文章を書きたい欲求が高まって爆発したから。

やっぱり僕は文章を書きたいんだ、と気付けたから今書いているわけだけど、まぁ僕の考え方の話なんてしてもしょうがないので、この書かなかった間に起こったことを含めてまた日記形式で書いていこうと思う。

と言うわけで、まぁ僕の文章を待ちこがれていた人なんているわけないし、そもそも読んでいる人もいないだろうけれど、興味があったら読んでください。と言うか、書かない期間を経ても相変わらず僕の文章は長いので長い文章が苦じゃない人だけ読んでください。


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先日カラオケに行ってきた。

他の人がどうかは知らないけれど、僕は時たま無性にカラオケに行きたくなることがある。

と言うか、僕の大方の欲求はいつも途端に無性に何かをしたくなることが総じて多い。例えば、たこ焼きを食べることも途端に無性に思うし、焼きそばを食べるのだって、牛丼を食べるのだって途端に無性に思う。DVDをレンタルで借りるのだって途端に無性に思う。

僕はそういうことが結構多くて、しかも幸か不幸か、その目的までの道を揺らぐことなく一直線に突き進む行動力というものを最上級のレベルで持っているから、大体やりたいと思ったことはやっている。

今僕はかなり良い面だけを書いたけれど、これは悪い面でもあるんだ。

常々思う僕の本当の悪い癖だけど、何かをやりたくなったらそれをしないと気が済まないんだよね。本当に悪い癖だと思う。

例えば、何かが買いたくなるとする。すると、僕はそれを買わないと気が済まない。そういう衝動を物凄い強さでもっていて、それは目的の道を揺らぐことなく一直線に進む悪い側面としか言いようがない。

悪く言えば猪突猛進であり、時にはワガママでもあり、そして良く言えば芯の強さとも言える。

そんな僕が先日カラオケに行きたいと唐突に強く思ってしまったものだから大変だ。結果的に、僕は思ったその日にカラオケに行ってきました。

え? 誰と行ったかって?

そんな野暮なこと聞かないでくださいよ。わかりきっていることじゃないですか。僕だって男なんですよ?

一人で行ってきましたよ、一人で。

かなりの人に驚かれるけれど、僕はカラオケに一人で平気で行ける人間なのです。かなりの人に驚かれると書いたけれど、驚くには驚くけれど、そのあとの反応は人によってばらつきがある。

ある人は僕を蔑んだ目で見るし、ある人は「お前寂しいな」と言ってくる。ある人は僕を異世界の住人であるかのように見る。ある人は信じられないって顔をする。

とまぁ、書こうと思えば枚挙に尽きない。

大半の人は否定的に見る。

僕は毎回毎回思うし言っているんだけど、別に一人で行っても良いじゃないですか。カラオケに一人で行く僕のことを否定的に見る人の価値観というものが、僕のそれとまったく違うってだけのことじゃないですか。

それでたまに「カラオケに一人で行くのはどうなのか議論」が開かれるけれど、そんなのっておかしい。

例えば、好きな相手は背が高い方が良いか、低い方が良いかで分かれる人って結構いると思うけれど、そんな二つの価値観(この場合は好み)のどちらが正しくてどちらが間違えているのかの議論なんてしたってしょうがないじゃないか。

Aさんは背が高い方が好き。Cさんは背が低い方が好き。Bさんはどちらでも良い。話はそれで終わりじゃないか。Aさんの価値観、Bさんの価値観、Cさんの価値観がそれぞれそうだってだけの話で何も間違えていないし、どれが正しいわけじゃない。

それと同じようなことなのに、どうして僕が一人でカラオケに行くことで議論されねばならぬのか。おかしいですよね?

議論の中で大体言われるけれど、曰く「カラオケってみんなで行くものだからさ」。

まぁね、確かにそういう風に出来ているかもしれないけどさ、そういう理屈を言われると、さっきの例のCさんも困ると僕は思うんだ。

だって、Aさんに「だって男はみんな大きいじゃない」と言われたらCさん困るよね。確かに男は総じて身体が大きい。確かにそういう風にできている。でもさ、小さな男が好きだったらおかしいというわけじゃないでしょう?

ちょっと好みとか価値観が違うだけじゃない。

だから、たとえ「カラオケ=みんなで行くもの」と言う価値観が大部分でも、「男=みんな大きいもの」と言う価値観が大部分でも、少数の方の価値観を持っている人もいて、それらを持っている人が間違えていることなんてないんですよ。


色々と理屈こねて書いてきたけれど、要するに「僕は友達がまったくいないから一人でカラオケに行っても良いじゃないか、気にしないでくれ」って言いたいだけだ。

それ以上でもそれ以下でもない。だけど、そうやって「友達がいないから気にしないでくれ」と言うと誰もがぐうの音も出ない。だってしょうがないものだものね。目が悪いから文字が見えにくいのと同じことだ。そういう星の元に生まれたんだからしょうがないの。

でも、カラオケに一人で行くと、不都合な点が出てくることもある。

一番は、休憩を取りづらいこと。

複数人で行けば、自分が歌ったあとは相手が歌っているから休めるけれど、一人だとそうはいかない。自分が歌ったあとに休憩を入れると静寂が訪れて急に現実に戻される感じがするし、かといって連続でバシバシ曲を入れると間髪入れずに来るので辛い。

一人でカラオケに行って感じる不都合な点はそんなところだ。

あと僕が運悪く一度だけ体験したことだけど、一人でカラオケに行って15人くらい入れる大部屋に案内されたことがある。

あれもかなり嫌ですよ。僕なんて一人なんだから小部屋で良いんだ。大部屋なんかに通されるとかなり大きな部屋の中に一人でポツーンと歌って、休んで、また歌う。その中で「大きな部屋の中に一人でいる自分」の姿を想像してしまうと、急に歌っている間の高揚感----ある種のトランス状態----が冷めて急に現実に引き戻される。

あの時はなかなかカラオケを楽しめなかった。

僕が一人でカラオケに行って、いつ帰ろうかと思うかと言うと、何回か書いたとおり「現実に引き戻された時」。歌っていくうちに段々現実に引き戻される。歌全般がそうだと思うけれど、歌っている間って何だか気分がこの世界からどこか他の世界に行くような不思議な感じありませんか? 例えば歌っている間は嫌なことを忘れられるとか、そういうことだ。

嫌なことを忘れているとフと「あぁ、今度のアレはどうしよう…」そう思った時、それは歌の世界から現実に引き戻されたと言えるのではないだろうか。少なくとも僕はそういう感じを抱くので、それを感じた時はさっさと帰り支度をする。

一人の場合2~3時間が限度。それ以上いたことはほとんどない。僕は何もかもを忘れられる歌の世界に生きる時間よりも楽しさもあるけれど苦しさも同時に備え持つ現実の世界で生きる時間の方が遙かに長いんだ、なんて考えてしまうと、長い時間なんていられるわけがないんだ。

そのような「現実に引き戻される感じ」とか、「一人に対しての適切な部屋の大きさ」とか、「人間の価値観の差異」とかのような考えを抱くことができるのは、ひとえにカラオケに一人で行くからだと僕は思っている。

僕にはカラオケに一人で行くことによってのみ得られたものがある。だから偉いとかそういうことでは断じてない。ただ、一つの自分の価値観、アイデンティティ(存在の証明)なんかを得る一つの機会として僕にとってはカラオケがあるわけだ。

まぁ、カラオケに行ってそんな小難しいことを考えるのは僕だけだと思うんだけど、それが僕という人間なんだ。


どうですか?

僕がどんな変人かを思い出しましたか?

僕は思い出しました。「あぁ、ヤスってこんなおかしな人間だったな」なんて今思っています。

「しょうもない男だな」とか「わけがわからない男だな」とか「長い文章だな」とか、色々と思ったことはあるだろう。でも、それらは全て間違った感じ方じゃない。だって本当のことだものね。

僕の個人的なことを言えば、文章の世界にまた身を浸せて心愉しいです。長らく離れていた自分がいたことに驚きだ。旧友に再会したような感じがする。またこれからも親睦を深めようと思う。友達を超え、恋人・親友を超え、もっともっと尊い存在へと。

How's it going ?

もしかしたら、このブログを見ている方は分かっているかもしれないけれど、僕は決して目立つ人間ではない。

クラスにいても、空気のような存在で、いるんだかいないんだかよく分からないような人間だ。はっきり言って学校のクラスの中では埋没していた人間だった。

でも、僕は仲間内では存在感がある人間でもある。

つまり、全体的視点で見ると埋没しているが、仲間内という狭い視点で見ると存在感がある、というわけだ。中学当時の友人に、「ヤスは当時から変だったよなぁ」と言われることがあるが、良い意味でも悪い意味でも、仲間内では存在感はあったらしい。当時から変なのです。

だから学校を卒業したあとに知人に会うと、一瞬、「あれ?こいつ誰だっけ?」と思われるのだ。それが表情を見ていればすぐに分かる。それに第一声が妙に他人行儀になっている。そういうのは少し人間観察を積めば分かるようになる。

さすがに仲が良かった人からはそうは思われてないだろうけど、ちょっとだけ話した----いわば、知人以上友達未満という間柄の人間だと僕のことを覚えてない。

簡単に言えば、僕は影が薄かったのだ。

だから当然モテない。

本音を言えば、モテたい。そりゃモテたいですよ。でも、僕は別にそんなに高望みしているわけではないので、そこまでモテようとは思ってない。愛する人が一人いて、その愛する人が愛を返してくれていれば満足だ。別に皆にモテようまでとは思ってない。というか、素材が欠陥品だらけだからそんなことは望んだところで無理なのだけれど。

そんな僕でも人並みに恋をする。

幸運にも何人かの人はその愛情を返してくれて、世間一般で言うところの恋人関係になったことがある。何とも幸運な限りだ。

前途の通り、僕は影が物凄く薄い。普通に「あれ?いたの?」みたいなことを言われかねないような人間だ。だからこそ、僕が誰かと付き合ったところで、さして周囲に波紋を広げたわけではなかった。中学以降は誰と誰が付き合っている、とか、離れたとか言う話で盛り上がるのが常だと思うけど、僕には友達も少ないし、話す人もいない、おまけに影も薄いと言うことでほとんど僕の噂が流れない……はずだった。

何故か知らないけど、僕と恋人が付き合っているという情報は、時に音の速さを悠々と抜き去り、ほぼ全員が知っているということになっていた。僕は秘密の付き合いをしているわけではなかったから、別に知られても構わないのだけど、何で恋愛関係になったときだけそういう情報が流れるのかなぁ、と思う。思うよね、普通。

実際、僕にはどうしてあそこまで情報が流れたのかがまるで分からない。確かに、市民が集う祭りごとに二人で行ったけれど、それだけだ。それにそこでも、何人かの人としか会ってない。

いや、違う。結構な人数に会っていたか……。多分10~20人くらいには会った…ような気がする。

それだけの人数で学校中に広まったわけだ。よもや、伝聞というのは摩訶不思議な情報伝達手段だ。僕はそのことに多大な畏怖を抱いている。


でも、少し考えてみるとやはりおかしな点がある。

僕は自分で言うのも何だけど、クラスの中でも埋没している影の薄い人間だ。多分斑鳩悟よりも影が薄いと思う。彼は駄目人間として通っているからまだマシ。僕に至っては本当にいるんだかいないんだか分からないような人間だったから。

え? 斑鳩悟を知らない? そうかそうか、それは困ったなぁf^^; でもそんな意見を無視して話を続けます。

埋没している影の薄い人間だったから僕の話題が出るはずがないのだ。

例えばこういうことである。

「あ、久しぶりぃ」

「久しぶり」

「最近どうよ」

「えー?最近新しい彼氏と付き合い始めたのぉ」

「えー?どんな人?」

「うーんとねぇ、優しいの」

「いいなぁ。私も欲しいなぁ」

「そういえば、ヤスにも恋人がいるらしいよ」

という風に話が発展することはあり得ないのである。何故なら僕は影が薄く、僕の話題が出るはずがないから。そもそも、僕のことを覚えている人がいることが驚きだ。だから僕の情報が流れるはずがないのだ。

でも、僕らの情報は流れた。

同窓会で久しぶりに会ったら、当時のクラス全員が僕らのことを知っていた。これには驚きですよ。僕とあまり話さなかった人まで知っていたし、僕が嫌いだったヤツも知っていた。一体これはどういうことだろうか。恋愛関係に関してだけは僕は有名人なのだろうか。

と、こう考えていると、一つの結果へと自ずと導かれる。

"僕が"話に上がるような人間ではないのだけど、"僕の恋人だった人"が話に上がるような人間だったのだろう、きっと。現に、市民が集う祭りごとに行ったときは、僕の知り合いなんてほとんどいなかったのだけど、彼女の知り合いは多くいた。

当時の彼女は僕なんかとは較べものにならないくらいに交友範囲が広くて、中学でも高校でもどこでも一目置かれるような人間だったのだ。

昔の恋人について書くのはどうなのよ、と思うけれど、まぁ昔のことだから書くことにする。別に未練があるわけでも、まだ好きだとかも思ってない。そりゃ別れた後は結構尾を引いていたけれど、今では何とも思ってない。多分、今「もう一度付き合って」とか言われても、「今更何言ってるんスか」とか言いそうである。僕ならそう言う。

まぁいいや。

それで当時の恋人は、超弩級の天然人間で、僕もたまに「ヤスは天然だよなぁ」とか言われるけど、僕なんかとは較べものにならないくらいに天然だった。いや、較べる方がおかしい。僕の天然レベルが3だとしても、彼女のレベルは58とか、もしくは計測不能レベルくらいはある。僕は密かにファンタジスタと呼んでいるくらいに凄い天然であった。

超弩級の天然キャラ、そしてどこでも一目置かれる人間だから彼女の噂はかなり広まる。その派生として、当時付き合っていた僕の噂が世に広まることになった、というわけである。

だから多分、彼女と付き合っていなかったらあんなにも広まらなかっただろうし、みんなの中の僕のことはとっくのとうに闇の中に葬られていたことだろうと思う。彼女がいなかったら多分今の僕はいないだろう。それは、僕の中でもそうだし、周囲の人間の中でもそうだろうと思う。彼女という存在が僕の影の薄さを濃くしてくれていたのだろう。まぁ、彼女と別れてからは元の薄い人間に戻ったけれども。

ちなみに、参考までに言うけれど、当時、僕自身が「彼女と付き合っているんだ」と言った人数は2人である。2人にしか言ってないのだけど、学校中が知ることになる。これは最早、噂というのは恐ろしいものである。

 

僕は影が薄い人間でもいいし、そういう役所は僕に合っていると思う。

ただ、僕が思うのは、恋愛方面の話というのは何でこうも広まるのだろう、と思う。別に誰と誰が付き合ったって別に構わないし、誰かに恋人がいるとかいないとかそういう情報はいらない。まぁ、それが自分の好きな人の情報だったら欲しいと思うけれど、友達とか知り合いとかそういう関係の人に恋人がいるとかいないとかそういう情報は断じていらないと思う。

別に友達に恋人がいるからとか、いないからとかそういう観点で付き合い方を変える気なんて毛頭ない。

でも、僕には理解できないのだけど、世間の人は友達に恋人がいるとかいないとかを気にしたりする。そんなのどうでもいいじゃないか。そういう疑問って、「あの人は犬を飼っているのかしら」とかそういう聞いてもしょうもない質問だと思いませんか?いや、僕は思う。(反語)

僕が「誰それには恋人がいるんだよ」なんて話題を振られても、「ふーん、そう」で終わる。

それなら、「誰それはこの間美味しいラーメン屋に行ったんだよ」とか「誰それはカレンダーを持っているのだよ」とか言われた方が話は盛り上がると思う。

早い話がどうでもいいのだ。そんな情報。

第一、若い年代の人に恋人がいるというのは何も不思議なことではない。そんなことを言われたとしても、年頃の人間なんだから別にいいんじゃねぇの、と思うだけである。

これは僕だけかもしれないけれど、そんなことを思うわけだ。

ときどき、僕は何となく世間とのズレを感じることがある。

僕という人間のアイデンティティは異端なる存在で、僕の思想や思考と周りの思想や思考には差異が生じているように感じる。もしかしたら、僕を見て「天然だ」と言う人達はその差異がおかしいから、天然だ、と言っているのではないだろうか、と考えてしまう。

勿論こういう考え方にこそ差異があるのだろうとは分かるが、そういうことを考え始めると、僕という人格の不確かさが浮かび上がってくるような気がする。

当時の彼女と付き合っていたときにこんなことは考えなかった。ただ、僕も当時の恋人も自覚はしてなかったけれど、天然と呼ばれることがよくある人間だと思っていた。そして、僕ら二人は運命に導かれて出会い、そして思いを重ね合って、最終的には別れた。

当時、こんなことを考えなくて、今考えるということは、僕は成長したのだろうか。それとも、異端なる存在に拍車をかけたのだろうか。それは分からないけれど、どちらにしても大差ないように感じる。

昔の僕、今の僕。二人は同じ人間であると同時に、違う人間だ。

時代が変われば環境は変わる。環境が変われば人間は変わる。『昔と今の話』はその一つの真理に辿り着く。

僕は占いとか風水とかそういうのは、否定はしないけど信じない。

だって、信用がおけないじゃないか。

朝の星占いなんてその最たる例で、日テレでは3位だったけど、読売では10位だった。なんて話はよくある話だ。一体どっちを信じろっていうんだ。どっちが俺の本当の運勢なんだ、真実を話せ真実を、とテレビに向かって吼えたくなる。

しかも、----この考えはかなり個人的な偏見が含まれているけど----占いなんて言い訳にする一つの逃げ道としか思えない。占いでひどい結果を教えられても、なにも悪いことがなければ占いのことも何も考えない。でも悪いことがあったら占いのせいにする。この考え方は如何なモノかと僕は思う。

何か良いことがあれば悪いことがあるのは世の常であり、それを占いのせいにするのはあまりに見当違いだ。もっと自分の不注意とかを責めたほうが理に適っている。占いはあくまで占い。気休め程度にしかならない。

そういうことを考えているから僕は占いなんてものは信用しない。それで何か不利益なことになったり不便な思いをしたかというと、断じて言うがそんなことは一回もない。

第一、僕なんかは、朝の星占いで黒のボールペンがラッキーアイテムだよ、なんて言われても、「お前、本当に黒のボールペンから幸運が巡ってくるんだろうな!? ホントか!? 何%ホントだ!? たかだか30%ごときの確率じゃねぇだろうな」とか「何がどうしてどのように幸運になれるのか教えて欲しいものですなぁ。俺が認めた幸運じゃないと俺は黒のボールペンなんてつかわん!!」とか考えているような人なので、どうやら占いとの相性は最悪、ということになる。

まぁ、これはちょっとやっかみを極端に言い過ぎだけれど、基本的に信用していないことは確かだ。

しかも最近よく耳にする心理テストというのも信じていいものか甚だ疑問でならない。

だってさ、「子供にアイスクリームをつけられたとき、あなたならどうしますか? 
A 親子に謝って貰う
B カワイイから許す
C 親に弁償させる 」

なんていう問題があるんだけど、これって明らかにその人の人となり(人間性)を表しているだけじゃないか。何が心理テストか。ここで分かることなんて『その人の偽善者度』か『その人の正直度』のどちらかだけじゃないか。

ちなみにこの心理テスト(と言う名のただの質問)で何が分かるかと言うと、『あなたは恋人からいきなりHに誘われたらどうするか』が分かるらしい。

これなら始めから正直に「あなたは恋人からいきなりHに誘われたらどうしますか?」という質問でもぶつければいいじゃないか。その質問でも分かるのは『その人の偽善者度』と『その人の正直度』が分かるからさっきの質問と同じことが分かるじゃないか。まぁしかし、こうなっては心理テストというよりはただのアンケート調査のようなことになってしまうけど。

そんな心理テストは眉唾物だ。大体に於いて、親子に謝ってもらうからどうとか、弁償させるからどうとか、そういう行動に心理的なものの関係性が本当にあるのだろうか? こんな行動から心理的なものが分かるのか、って一度でも疑問に思ってしまうと、眉唾物にしか思えなくなる。

いや、全てが間違えているとは言わない。僕もいくばくかの心理的作用による行動というものを知っているから、全部が全部違うとは思ってない。

だけど、何というかこの3つの質問のうちの1つと言う選択肢が無い中で、その人の心理的なものが決めつけられてしまうのは納得がいかない。人間を3つのうちのどれかにしか分けようとするのは間違えていることだ、とは思っている。

A、B、Cとある中で、Aの要素も含んでいるBとかもあって然るべきだし、CっぽいBもいても何らおかしな話ではない。それを無理矢理、これを選んだのだからこれ、と決めつけられると正直、なんだかなぁ、と思う。

僕は決めつけられるのが嫌いなので、こういう質問があるといつも眉に唾をつけてしまう。

こういう問題が度々あるから僕は心理テストも信じない。上記のような胡散臭さがあるから占いも信じない。さっきも書いたけど、それで不便な思いや不利益なことになったかというと、そんなことは一回たりともない。

占いを信じても信じなくても、日は昇り、日は落ちる。幸運にも見舞われるし、不幸にも見舞われる。僕は占いのせいにしたり、占いのおかげだと思うのは好きじゃない。占いがあろうがなかろうが、それは僕が勝ち得たものであり、占いのおかげで手に入れたものではない。同様にどんなに不幸なことが起ころうとも、それは占いのせいなどではなく、ただ不幸が重なって大きな不幸になったり、ただ単に不注意が招いたものだ。僕は占いのせいにしたり、占いのおかげだとは思いたくないのだ。

だからと言って占いなんて無くなればいいんだ、と極端な発想を展開する気はない。だって、僕がこうして占いに全く頼らない人がいるってことは、逆に占いに頼る人がいるということに他ならないわけであり、占いなんて無くなればいいんだ、と言ってしまってはその方々の拠り所を抹殺してしまうことになる。人間なんてある一つの信じていたモノが無くなってしまってはかなり大きなダメージを受けてしまうものだということは僕でも分かっているので、そんな極論は言わない。

ただ、こんな考え方もあるのか、と心のどこかで密かに感じられればそれでいいです。


僕は基本的に、「何かを願えば救われる」という思いを抱かない人間だ。平和を願ったって平和になるわけがないということも知っている。本当に平和にしたいのだったらそのためのアクションを起こさないと意味がない。つまり占いでも、「占いを信じれば幸せになれる」とは思ってない。そのためのアクションを起こす気がないのに幸せになれるわけがない。まぁ、"占いを信じる"というのも一つのアクションですけどね。

多分、僕は屈折した人間なんだと思う。もっと言えば、歪んでいるんだ。

そんな僕でも一個だけ面白いと思わせる占いがあった。

何かというと、今や懐かしき「動物占い」。あれが全盛期だったころに試しにやってみたのだけど、いやはや、あそこに書いてあることは面白かった。中には「うーん、俺ってマニュアル通りの人間だったのか」と思わせたり、中には「こんな側面も隠されていたのか」と思ったりした。当たっているか当たってないかと聞かれると、結構当たっていたりするから面白い。

占いの胡散臭さによって占いを信じなくなったけれど、実は占いというのは、当たっているから面白いのではないだろうか。自分との一致点が見つかった時の「そうそう、そうなのよねぇ」と言う感じ。多分、あの感じを求めて占いというモノを見るのだと思う。でも、外れていたら「私はこんなことしない」とかなんとか言っちゃってね。人間ってのは難しい生き物だ。

星占いに関しては一致点なんて見られないので知りません。せめて、日テレと読売とで違う占い結果が出るのはなんとかしてほしい。そうは思いませんか?

【前編】からの続き----。


そんな原作の知識を持ち、尚かつひねくれた僕が映画を見ると、他にも面白いところがある。

冒頭のグリーンゴブリン2世に襲われる場面。

すばらしいVFXで描かれる両者の対決。手に汗握る展開。

あぁ、スパイディ、逃げて!!

みんながそう思う中、僕はこう思った。

「あぁ、スパイディ、いけない!! 早く動いて逃げたいならば、もっと短い糸を出さないと!! そんなに長い糸じゃ原付よりも遅いぞ!!」。

えぇと、これはちょっと難しい話になるんだけど、振り子運動の早さを決めるのは、質量でも、振り子の角度でもなく、実は振り子自体の長さしか関係しないのだ。

例えば、重いものと軽いものを同時に振り子運動させても、同じスピードになるし、振り子の角度が違う二つの同じ振り子でも同じスピードになる。

振り子運動の早さを決定するのは、振り子の長さで、短いものほど早く動くし、長いものは遅くなる。これはちょっと科学的視点なのだけど、問題は僕がそんな難しいことを知っている、と言うところではなく、皆一様に息をのんでいる場面で、そんな現実的なことを考えている、と言う僕の視点のおかしさが問題なのだ。

それと同じような着眼点で見るとちょっと心配になってしまうことがある。

とある本に書かれていて、僕もそうだよな、と思っていたことなんだけど、遺伝子操作された蜘蛛に噛まれたくらいで遺伝情報が変わってきてしまってはMJと色々なことをやっているうちにその遺伝子情報が受け継がれてしまうではないか! いけない、スパイディ、あなたの子孫はみんなスパイダーマン(あるいはスパイダーウーマン)になってしまう!!

なんて考えるのはきっと、僕だけである。

 

何故か知らないけれど、「3」を見ていて、涙が流れた。

それも、スパイダーマンとグリーンゴブリン2世が感動的に共闘したところとか、ハリーがピーターの代わりに息を引き取るところとか、そういう王道的なところではなく、市民に歓迎されるスパイダーマンとか、市民に「いけ、スパイディ!!」と声援を送られているところで泣いた。

何で泣いたのかの詳しいところは分からないけれど、きっと、紆余曲折を通じて、彼が市民の信頼を勝ち得たからだと思う。でも、今さらながらに考えると、何で「スパイダーマン」で泣いたんだろう?

「1」でも泣いた。

「スパイダーマンは子供を助けようとしてるんだろうが! スパイダーマンの敵は俺たちの敵だ!!」という科白を聞き、その場面を見ると僕は涙を流す。

いまいちどうしてかは分からないけれど、やっぱり「スパイダーマンが受け入れられたんだ。こんなに悩み、苦悩したヒーローが受け入れられたのだ」と思ったから涙が出てきたのかもしれない。

余談だけど、僕は結構涙もろい。色々な映画で泣いてきた剛の者である(矛盾してるね)。

そんな僕は「スパイダーマン」でも泣くのである。

 

最後の締めくくり方で納得がいかないのが、「2」ほどにMJとピーターの関係がわかりにくく終わったことだ。あれでは「4」が出るかもしれない、と思ってしまうではないか。

次回作が作られるとして出てくるキャラとしたら、あと、原作に主要だった登場人物は、先ほどのカーネージとか、ワイルドキャット(キャットウーマンだったかもしれない。名前に自信がない)とか、後は……キングピンか? しかしキングピンは確かデアデビルとかにも出ていたな。マイケルクラークダンカンがやっていたんじゃなかったかな。

何でデアデビルに出てきた敵がスパイダーマンに出てくるかと言うと、マーヴェルは結構遊び心満点なので、同じマーヴェルの作品がゲストとして出てくることが度々ある。

例えば、原作の「スパイダーマン」にXーメンとか、デアデビル、さらにはブレイドなんかも出ていたことがあるわけで、それの一環として、キングピンは色々なものに出演しているようだ。

映画版で出てきた登場人物に関係がある敵役を挙げるとするならば、コナーズ教授が変身するリザード。他には、JJがスパイダーマンを殺すために作り上げたスコーピオン。カーネージもヴェノムが出たことにより、出てくるフラグは立った。

しかし、何が起こるか分からないのがアメコミである。

死んだ人間が復活するなんて日常茶飯事だし、さらに言えば、敵だった相手が味方になるのも日常茶飯事。

だから、アメコミを映画化したものの次回作を考えるのは結構難しいことではある。

 

原作との比較ばかりを書いていてもしょうがないので、率直な感想を言うと、面白いことは面白い。

でも、僕は原作でどうなるのかを知っている観点から映画を見ているので、何も知らない人が見た観点とは明らかに異なっているはずだ。だから、普通の人がこれを見ても面白いかどうかは定かではない。

今作では敵が多いので、一体にかける時間が少なかったと思う。

ピーターの恋愛や友情などの日常を書き、さらに複数いる敵のストーリーをも語る。そして戦闘シーンも語る。ちょっと大風呂敷を広げすぎたんじゃないだろうか。敵は一人でいいじゃないか。「1」も「2」もそれで、存分にヒーローの苦悩が描けたではないか。

ちょっと色々なことをごちゃ混ぜにしすぎだな。最大のライバルであるヴェノムのシーンも少ない。

ちょっと残念。

でもまぁ、あのVFXによる戦闘シーンは圧巻の一言。時代はここまで来たか、と思わせる動きだった。

今作では、ピーターの苦悩を描く----と言うより、ピーターとMJの危うい関係が主だったと思う。今までも、それにふれていたけれど、ヒーローの苦悩はあまりなかったかな。まぁ、そりゃそうだよな。スパイダーマンは栄誉市民賞もらったんだから。


DVDが出たら買うかどうかは分からない。

あれはじっくり見てみたいと思うけれど、高い金払ってまで家で見る映画か、と言うと少し答えに窮する。

スパイダーマンファンとしては見るべき映画だ、と言えるだろう。

何て言うか、映画には

1:主人公の心の揺れ動き方などのストーリーを楽しむ映画。

2:見ていてすっきり爽快になるアクションを楽しむ映画。

この二つがあると思う。もちろんこれは数多あるうちの二つをピックアップして書いただけであり、もっと他にファクターもあるはずだ。

「スパイダーマン」はその二つの中間に位置し、それら二つを楽しむ映画であるようにも感じる。特に「2」ではそれが顕著だった。いや、「2」はさっきの一つ目の例寄りかな?

多分その二つの線引きというのは見る人それぞれがやることだと思う。

傾向的に言うと、左記に挙げた二つの例のそれぞれの特性を混ぜた映画----つまり両立した映画----が増えてきている。スターウォーズⅢなんてそうだったものね。

別にそれが悪いことだとは言わない。二つの面白い点が混在しているとするならば得したな、と思えないことはない。

きっとサムライミ(映画版「スパイダーマン」の監督)も色々と考えて作っているんだと思う。「2」でストーリー性に重きを置いたから「3」ではアクション全開かもしれない。あるいはそれは僕が勝手に思った偏見かもしれない。それは分からない。

でも、きっと「スパイダーマン」の醍醐味って等身大のヒーローってことなんだろうな。

ヒーローだからいつでも強く正しく。と言うわけではなく、ヒーローになったことにより抱えた悩みというのが----言い方は悪いかもしれないけれど----大衆的だ。

ヒーローになることにより悩みを抱えた、と言う主人公が出てくる映画はそうないと思う。

それが「スパイダーマン」の魅力であり、サムライミの凄いところなのかもしれないな。

なんて、しみじみと思う映画です。

 


それにしても、ずらずらと書いていたら、こんなに長い文章になってしまった。僕のよく知っている話を説明しようとすると、どうしても長くなってしまった。元々、文章が長いのは僕の主立った特徴だけれども、今回はさらにヒートアップして長くなりすぎた。まさか前後編に分けるほどの分量になろうとは。さらに言えば、前後編合わせると過去最長の文章となってしまったではないか。

僕に求められるステータスってもしかして、短くまとめる、と言うことなのだろうか。

うーん…反省します。

でも、きっと僕は文章の書き方なんて改めないと思う。だって、これは僕が長年かけて編み出した、僕の一つの能力だから。ここまで行き着くのに時間が凄くかかったんだ。そしてこの書き方は僕の思考をよく反映してくれる----いや、それ以上は言うまい。

と言うわけで、こんなに長い文章を読んでくれてありがとう。

期待して見た文章がこんなのかよ! と思ってガッカリするかもしれないけれど、ガッカリするのも人生である。なんて僕が言うことじゃないか。

 

日本では高層ビルが特にないので、日本で活躍することは出来ないスパイディ。

あなたの親愛なる隣人スパイダーマンをあなたも応援しませんか?

頑張れスパイダーマン!

「スパイダーマン3」を見に行った。

一つ主張しておきたいのが、僕はそんじょそこらの「話題だから」とか思って見に行く輩と一緒にされては困るのである。

僕はね、スパイダーマンの原作を見たほどのスパイダーマン狂ですよ。それも数年前に見ていたので、今となっては細かいところは分からないけれど、それでも素人とは雲泥の差の知識量を持っているわけでして……えーと、その……だから、話題だから見に行ったわけではない、とそう言いたいわけですね。

それと、今回の文章には映画のネタバレを含んだ文章になるかと思うので、これから見ようとする人で、聞きたくないわ、と思っている方がいたら、僕のこんなくだらない文章なんて見ない方が身のためです。保身に走りましょう。

※今回の文章を一気にバーッと書いたら、サイズがあまりに大きくなりすぎたため、二回に分けて更新することにしました。

さすがに二回に分けないと、うんざりする量だった。元々僕の文章は見ていてうんざりする類の文章だけれど、それにさらに助長するような長さの文章だったわけで、どうにもヒートアップしすぎたな。

【前編】では原作と映画版の違いを。

【後編】では僕から見た映画の感想を----と言うように、それぞれ分けました。

 


3では、4人の敵が出てくる、と映画雑誌なんかに書いてある。

1:サンドマン。

2:グリーンゴブリン2世。

3:ヴェノム。

4:自分自身。

というわけなんだけど、映画を見ている時もずっと考えていたのだけど、原作にサンドマンなんて出てきたっけかなぁ。確かどっかの雑誌に映画のサンドマンは原作を忠実に再現している、と書いてあったけれど、僕の記憶の中では原作でサンドマンを見たことがない気がする。

と言う話の流れから、まずは僕くらいにしか書けない、原作と映画版の違いについて書こうと思う。

グリーンゴブリン2世は原作に出てきた。でも、映画版のようにあんな格好良い容姿をしていない。まぁ、それを言ったら「スパイダーマン1」の時のグリーンゴブリン1世ですらあんな格好良い格好をしていないんだけど。もっとアホらしい、バカじゃないの? と言いたくなるようなファッションセンスをしていた。ユニクロで買った服をダサいと言う人がいるけれど、それを着てもまだイケメンみたい、と言われるようなファッションセンスである。

「3」の最後でスパイダーマン(ピーター)とグリーンゴブリン2世(ハリー)が共闘することになっているけれど、原作ではそんなことは一切なかった。

ただ一つ共通点を見いだすのならば、ピーターのために自分の生命を犠牲にして自分が死んでしまった点であろう。どういう背景だったかはうろ覚えだけれど、原作では確かピーターの代わりにハリーが死んだと思った。ちなみに、父親がグリーンゴブリン1世だったことは言うまでもなく原作と同じ。

さて、「3」最大の見所であるヴェノムのことだけど、ヴェノムの元となる寄生生物は確か、MJの婚約者であり、JJ(ジェイジョナジェイムソン)の息子である、何とかって宇宙飛行士が宇宙から帰ってくる時に宇宙船に張り付いていたんじゃなかったかな。

あぁ、その何とかって宇宙飛行士は「2」に出てたな。あの人。

それで、どういうわけだかスパイダーマンに寄生してスパイダーマンの能力を得た。

そこからエディにどうしてヴェノムが寄生したのかって言う過程はほとんど原作と一緒。

違うところと言うと細かいことになるんだけど、実は教会で敵と戦っている時にその敵を殺そうとしたんだよね、寄生生物に寄生されているスパイダーマンが。それで、「あぁ、俺はなんてことをしようとしたんだ」と教会の鐘のところで憂えて寄生生物をはがそうとすると、教会の鐘が鳴る。

そしてスパイダーマンに復讐しようとしたエディに偶然的に寄生。それでヴェノムが出現。

しかし、映画の中では「ヴェノム」という単語が一言も出てこなかった。それが結構残念。

確か原作では『スパイダーマンに復讐する毒----ヴェノムと名乗ろう』と言う科白があったんだけど、僕はその科白が好きだったから出てこなくて残念。

ちなみに、映画版ではヴェノムの弱点が鐘の音、となっているけれど、実のところを言うと、ヴェノムの弱点は鐘の音ではない。まぁ、ある一側面で言うと正しいんだけど、正確に言うと、大きな音量が嫌いなのである。

寄生生物に寄生されると、パワーが上がり、反応速度も異常に高まる。それと同時に副作用的なものとして、暗黒面の感情までもが増幅される。

原作では、ピーターが寄生されてどれだけパワーが上がったかについて、語っている。

『普通のスパイダーマンでは、軽自動車を持ち上げるだけの力しかなかったが、寄生されたスパイダーマンはトラックをも持ち上げられる』と話していた。その力で、建物をぶち壊し、その壊した壁で敵を押しつぶそうとしていたこともある。

スパイダーマンから寄生生物がはがれたのは映画版と原作は同じなわけだけど、エディから寄生生物をはがすやり方はちょっと違った。

確か、ロケットの大音量によりエディから寄生生物をはがし、そしてそのロケットにくっつけて宇宙へととばしていた。

そう、原作ではエディは死なないのである。何故か映画版では死んでしまった。僕から言わせると、そんなことをしたら、後々ヴェノムが出てこれないじゃないか、なんて思う。

現に原作では、エディはその後もヴェノムとして出てくることがある。

えーと、一度宇宙に飛んでいった寄生生物が何故また地球にやってきてエディにくっついたのかは、想像してください。想像通りの展開だから書かない。

今回ヴェノムが出てきたわけで、もしかしたらカーネージ(カーネイジかもしれない)が出てくるフラグは微妙に立ったわけだ。

カーネージというのはヴェノムの兄弟です。先ほど書かなかったけれど、またしても宇宙から寄生生物がやってきて、そしてエディにとりつき、また他の誰か(名前は忘れたけれど、根っからの犯罪者)に寄生して、ダブルヴェノムでスパイダーマンを苦しめていた。

しかし、エディには恋人がいて、その恋人を救うためにカーネージを倒し、一緒に自分も死んだ。

つまり、映画でエディが死んでしまうとカーネージが出てくるフラグが倒されてしまうという問題が起きるわけだ。でも、これは天下のマーヴェルなので、死んだ人が生き返るのは造作もないことである。アメコミは一度死んだ人が生き返るのは日常茶飯事だからな。「Xメン」でもそうだったでしょう?

そういえば、余談となるけれど、スパイダーマンを見た人の中で、スパイダーマンがとばした蜘蛛の糸はその後どうなっているのだろう? と疑問に思った方はいませんか?

それについてちょっと答えます。

映画では、スパイダーマンは自分の身体の中で作る糸(確か生体ウェブと言ったような気がする)を手首からとばしている。

でも、原作ではスパイダーマンが飛ばす糸というのは、手首のところに装着された『ウェブシューター』と言う機械を使って糸を飛ばしているのだ。

映画ではまったく語られることがないけれど、ピーターはその天才的頭脳で色々なものを自分で開発し、それを用いて勧善懲悪をしているのだ。

ウェブシューターはカートリッジ式で、カプセル型のカートリッジをウェブシューターにはめることにより、蜘蛛の糸が出る仕組みになっている。だから、危機的場面になるとしょっちゅうカートリッジが切れることがある。ここら辺もアメコミ的と言える。ちなみにスパイダーマン独特の糸を出す時の指の曲げ方は原作と映画は一緒。

それで、そのウェブシューターから出される蜘蛛の糸は24時間経つと自然消滅すると言う驚くべき機能がある。

その点が映画では語られないので分からないけれど、それは、原作とまったく違うからこういうことになるのである。原作を知っている人だけが分かる、と言うことでこういうのはフェアじゃないな。

スパイダーマンはウェブシューターという機械を使って糸を出している。

原作の中でこの事実はすごいおかしな事態を巻き起こしている。

もう一度言うと、スパイダーマンは機械によって糸を出しているわけだ。

しかし、原作のヴェノムはスパイダーマンの能力を得た時に一緒に糸を出す能力まで覚えてしまった。これ、おかしいですよね? 機械の力をいかにしてコピーしたのか。これが原作のおかしなところ。

あるいは機械の能力すらら体得できてしまうのがその寄生生物の凄いところなのかもしれない。でも、それだったらどうして逃げた犯人によくくっつける発信器などの能力をコピーしなかったのか。おかしなところを挙げれば枚挙に暇がない。

だから、映画版ではスパイダーマンはその能力の一環として糸を出す能力を身につけたわけで、それに寄生したヴェノムが糸を出す力を得てもなんら不思議なことではない。

そう考えると、もしかしたら映画版の立場の方が良かったのかもしれない。

【後編】へ続く----。

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