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自由気ままでアホ丸出しのエッセイと稚拙な創作物(小説)を載せています。  時間の許す限りお付き合いください。
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少し前に――とは言えもう1ヶ月も前のことなんだけど、小説的な文章を載せてからというものの、また次の小説ばかりを書いていたのでこういうエッセイというものは何一つ書いていないという状態だった。

僕は僕の文章を心待ちにしている人なんていないということを知っているので、そういう人達のために書こうと言うピグマリオン効果というものはまったくない。

ただ小説にばかり重きを置きすぎるのもどうかと思うので、こうして今までのようなエッセイも書こうとしている次第です。元々僕にとっての文章の原点ってこういうエッセイ的な文章なんでね。

気にしている人はいないと思うけれど、今書いている小説の方は結構書き進んでいて、既に前回の分量を追い越しました。えぇはい、そうです。今回のは前回のよりも長いと言うことです。まぁお知らせとして。

 

 

さてさて、もう年末(※この文章が書かれているのは2008年の12月26日の風の強い午後です)ですねぇ。

クリスマスも終わり、色とりどりのイルミネーションは正月へとシフトチェンジをする頃合いだ。

もう一年も終わりだというのだから本当に早いものだと思うけれど、僕の周りではこういうことに同調する人がかなりいるとはいっても、誰しもが「時間経つの早いよー」と言っているというのも、あまりに生産性のない現実から逃避しているような考え方なのでそれに関してはこれ以上は書かない。

クリスマスシーズンの時は近くにある電気店とかオモチャ売り場が混雑の極み状態で、僕のバイクですら駐車スペースがなかったという自体になっていたんだけれど、こういうことがあると「俺の住んでいるところも結構人が住んでいたんだなぁ」としみじみ思う。

鼻が詰まったから今まで息をしていたのが分かったみたいな理論だけどさ。

そうなるとレジはメチャクチャ並んでいるし、僕が見たいものが陳列されているところには人がいっぱいで見られないし、子供は泣き叫ぶし、店員は寄ってくるしでもう地獄絵図である。この世界で今までに死んでいる人って何億人か何兆人かくらいいるだろうけど、地獄もこんな感じでごった返し状態なのかな、なんて考えた。

僕なんて欲しいものがあってそこに行っているわけじゃない単なる冷やかしなんだから、これくらい人がいると気が滅入る思いだけど、よく考えたら冷やかしなんだからレジに並んだりしないんだから関係ないんだよな。そういうことは家に帰ってから「ふー、疲れた」なんて言ってカバンを下ろした辺りに気付くんだ。

電気店辺りに行くとこの季節だから安売りをしている。

段ボールが山積みにされ、そこに紙が貼ってる。例えば「大特価 なんちゃら%オフ」とかね。

たまにあるんだけど、僕が3000円引きで買ったものが、次の週とかしばらくしてから4500円引きとかになっているとへこむ。

「なんてこったぃ」なんて思うんだけど、そういう時はヤスの秘伝の殺法『俺は何も見なかった』を繰り出して忘れることにしている。そういうことを細かく覚えていると人間性がひん曲がってしまうような気もするし、何より忘れられれば楽である。

僕はそれができる男なんだ。あ、これ自慢ですよ。

それでしばらく歩いているとまた安売りの貼り紙が貼ってあった。

でも僕はそれを見て「うーむ」と考え込んでしまった。

そこには『大人気 20%オフ!』と書いてあった。

あぁいやいや、お待ち下さい。皆様の言いたいことは分かります。「この貼り紙のどこに考え込むんだよ。20%オフじゃ足りないってのか?」とか言いたいんでしょうけど、ちょっと待って下さいよ。

そうじゃあない。断じて言うけどそうじゃない。

僕が気にしているのはこの書き方の問題だ。

この貼り紙、あなたなら何と読みますか?

普通の人なら『だいにんき にじゅっぱーせんとおふ』と読むでしょう。

ところが僕は『おとなげ にじゅっぱーせんとおふ』と読んだんですよ。

だから僕は大変だ、なんて思ったわけです。

僕ももう結構な年齢のわけですが、"おとなげ"が20%もオフになったら僕なんてもう幼稚園児クラスですよ。

そうやって"おとなげ"がオフされてしまうから、冒頭のようにクリスマスシーズンでごった返しする電気店やオモチャ売り場で人が多いなぁ、なんて思うんですよ、これは。

だって大人だったら「普段家族サービスできていないからクリスマスはちゃんと子供にプレゼントを買ってやって一緒に祝おう。それに奥さんにも何かを買っていこう」なんて思って人の多さよりも相手の喜ぶ顔のことを思うでしょう。

それが僕は「人が多くてうるさくて、これはまるで地獄絵図だ、俺は地獄に来てしまったんだ。子供の時に虫を大虐殺したからこんなところに来たんだ」なんて思っているんですよ。これはもう大幅に"おとなげ"がカットされているに違いない。

しかしそうやって考えると、僕は気安く"おとなげ"がカットされた、とかオフになったとか言っているけれど、はたして"おとなげ"というのはどうやって人に身に付くのであろうか。

なんて考えたけれど小難しく考えるのは僕のクセなのでやめます。

そうやって考えていくと段々"おとなげ"のインフレとかデフレとかそういう次元に話が発展することは避けられないし、さらに行くと「"おとなげ"即売会」とか「闇"おとなげ"売買」とか行くことは目に見えている。

そんな僕は、バカではないのでバカと呼ばずにアホと呼んで欲しい。「アホと言えばアホ、天才と言えば天才的な考えだ」なんて書こうと思ったけれど、こんな考え方を持つ僕を「天才だ!」と言う人がいるのであろうか。

いたとしたらその人の頭を心配してしまうくらいだ。だって、「"おとなげ"のインフレ」とか「"おとなげ"即売会」なんて言ってるような男ですよ、これはもうアホとしか言いようがない。バカとは呼ばないでください。


話を戻すけど、「大人気 ~%オフ」とか書かれると僕としては首を捻ってしまうのである。

これが例えば「本日は当店にお越しいただきまことにありがとうございます。普段のご愛顧への一お礼として○○社のこの商品を大人気につき20%オフとさせていだきます」なんて書いてあったら僕も悩まない。

ここまで長くなくていいから「大人気につき20%オフ」とだけ書いてくれればいいわけである。

ところがそれを「大人気 20%オフ」と書くから僕のような人間は騙されてしまうんだ。

これは、ある一つの主張の論を削りすぎると、いつしかその主張は形を変えてしまうという良い例である。

まだこれが電気製品に貼られているからいいものの、例えばコ○カとかア○キとか○○○とかにあるスーツにこれがくっついていたらどうなることか。

誰が「"おとなげ" 20%オフ」と書いてあるスーツを着たいものか。

"おとなげ"が20%もダウンするスーツですよ? きっとスーツには食べこぼしの跡があったり、泥がついていたりするんだろう? 靴下は穴が空いているし、きっと靴にも泥がついてるだろう。

誰がそんなスーツを買うのか。


もうちょっと店側も書き方というものを考えてくれないと僕のような男は悩んでしまうのである――というのが僕の主張である。

 

 

 

あー、今日も平和だなぁ。
 

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先日『今なら言えそうに思うから...』という短編物語を載せたのですが、それについての後書きのようなものを特設サイトの方で公開しております。

ただし一つご注意をば。

後書きのようなもの、と書きましたが、実際には"後書き"ではありません。"後語り"です。

つまり文章として解説を書いたのではなく、言葉として解説をしゃべったということなのです。

とは言え、僕も不特定多数の人に公開している身として、その特設サイトに行ったらいきなり音声が流れるという形式にはしていません。そこは考えて――そして少しだけ勉強をして――再生ボタンを押したら音声が流れるという形式にしておきました。

なので、特設サイトに飛んだらいきなり音声が流れる心配はしなくて大丈夫です。

おそらく大丈夫です。

十中八九大丈夫です。

まぁそこは僕のhtml技術を信じるとして、その後語りを聞いてみたいという方は下のリンクから飛んでいってください。

僕の声が流れるわけですが、格好良い声でもないし、聞き惚れる声ではないということを前もって言っておきます。


この文章は前後編に分けられた僕の創作物の後編にあたるものです。

【前編】から続いているので、そちらを先に見た方が話は分かるんじゃないかなぁ、なんて僕は思っています。

それでは、【前編】と同じように下にある『続きを読む』というところをクリックすれば見ることができます。




今回の文章は僕の創作物です。

書いていてとても楽しかったので文章の長さが半端じゃないくらいに多くなってしまいました。なので、前後編に分けて載せることにしました。でないとかなり長い分量なんですよね。

まぁ、細かいことを冒頭でグダグダと書きたくないので経緯とかそういう物語に関係のないことは書きません。

ただ一つ言いたいのは今回の文章は今までに例を見ないほどに長い文章です。長い文章が苦手な方、長い文章を見ると気分が悪くなる方とか、とにかく長い文章を読みたくない人には苦じゃないかと思います。

とだけ言っておきます。とは言っても読んでくれれば嬉しいんですが、えーと、まぁ、一応それだけは言っておきます。

最後まで読んでくださる方が奇跡的にいたらそれは非常に嬉しいし、さらに奇跡的に何かしらのコメントをくださる方がいたらさらに嬉しいです。


それでは、前編と後編に分けられるほどの長い文章を読む覚悟がある方のみ下の『続きを読む』をクリックしてください。


この文章は数年ほど前に書いたけれど、結局日の目を見ることなく保存されていたものを引っ張り出してきた文章です。

数年ほど前と古いため結構おかしなところはあるけれど、気にしないでください。

先ほど読み返したけれど、歴史を感じるね。「人に歴史あり」とはよく言ったものです。

----------------
今回のお話の前半は、少しビロウな話----短絡的に言って下品な話の部類に属するので、その手のことが見たくない方は中盤から見るなり、このページを閉じるなり、何かしらの手段を試みてください。


僕は水があればとりあえず生きていけると思う。

あまり、食欲というものは無いけれど、飲欲(新語)は結構ある。

僕は、よくのどが渇く人なので、普段から部屋に500mlのペットボトルを常備したりして、常に飲んでいる。最近は暖かくなってきたから部屋に常備すると一日二日でペットボトルの中の飲み物が駄目になってしまうので、常備はしてないけれど、冷蔵庫の中には僕専用のペットボトルの中に麦茶を入れてそれを飲んでいる。

それと関係があるようで全くないんだけど、僕はトイレが物凄く近い。

普通の人のトイレの近さが100m走くらいの長さだとすると、僕は25m走くらいの近さだ。

当然トイレに行く回数が人の何倍も多い。

僕は毎年冬になると気の合う仲間数人で鍋をつついて暖をとったりするんだけど、そういうとき、僕の真価は発揮される。

他の人が全行程を通じて----というのが適切な表現であるかどうかは分からないんだけど----1回か多くても2回行くところを僕だけは5回くらい行ったりする。

そうなると当然、その友人から「ヤスってトイレ近いなぁ」と言われることになる。僕は自分がトイレが近いことを自覚しているし、それを悲観的に取っているわけでもないので、何言われても別にさしたる問題ではない。正直どうでもいい。

僕の行動パターンから割り出された"トイレに行く頻度"と言うのは、大体60~90分間に一回の割合で行くという統計が出ている。これは本当に僕の普段の生活から割り出したかなり正確な数値である。

つまり、僕のトイレサイクルは大学の講義1時限分ということになる。だから僕は講義が終わるたびにトイレに行っている。理論的な話じゃなくて、具体的に本当に僕は講義が終わるたびにトイレに行っている。

僕は何でも、法則性を探すのが好きなので、トイレに関するサイクルにも法則性を見いだしているのだ。

でも、そうやって自分の体内にあるサイクルが分かっているというのはかなり楽である。

それは、トイレのサイクルでも、テンションのサイクルでも、頭の回る時間のサイクルでも何でもそうだ。例えば、テンションのサイクルが分かっていれば、自分がどんなときにテンションが高くなって、どんなときに低くなるのかが分かる。そうすれば、高くなっているときに色々とやろう、とか低くなりそうだから少し控えよう、とか意識することが出来る。

僕のトイレのサイクルもそんな感じである。

これは90分以上かかるだろうから、先にトイレに行っておこう、とか考えて行動するわけである。そういうのって凄く楽だ。

というか、普通の人間って自分のトイレのサイクルが分かってないだろうと僕は思う。こんなトイレのサイクルの話なんて他人としたことがないから確証が持てるわけじゃないけれど、そうであろうと僕は想像する。

いつ尿意を催すか分からないから、授業中とか大事なときに急にトイレに行くことになる。

僕にはそれがない。自分がどれくらい経ったらトイレに行くのか分かっているからそんなことはない。便利と言えば便利、である。


どうして僕のトイレがこうも近いのか、と言うことをたまに考えるけれど、その答えはもう既に出ている。別に文章上で書くことでもないだろうから書かないけれど、僕にはその原因が分かっている。そして、その答えの中には、僕がどうして水分を取るのか、という問いの答えも含まれているのだ。

それらはある一つの事象から派生的に二股に分かれて生まれてきた要因なのだ。だから元を正せば、二つの要因は一つの事象に結びつく。


僕が普段よく飲んでいる飲み物は大体がお茶だ。一番飲んでいるのは「生茶」。次が時季によるけれど、麦茶。それくらいしか飲まない。出かけるときも生茶を持って行っている。昔は水にしていたんだけど、いつの間にかお茶系統になってしまっている。

水の中で一番好きなのは、断然「ボルヴィック」。

これは今まで飲んできた水の中で一番美味しい。でも、高いんだよね。なかなか100円以下にならないから、そんなに頻繁には買えない。誰かに奢って貰うときとかはこれをチョイスしている。飲みたいけれどなかなか飲めない飲み物の一つだ。

何に関してもそうなんだけど、僕は選ぶときには自分の気に入っているものしか選ばない。偏愛主義と言うか、盲目的と言うか、初志貫徹というか、何というか…。だから、僕が選ぶ飲み物と言うのは凄く限られてくるんだ。

上二つの他に、僕がよく飲んでいると言えば、リプトンから出ている「リモーネ」と言うレモンティーをよく飲んでいる。

始めて僕がリモーネと出会ったのは、かれこれ3,4年前だ。

とあるレンタルショップに知り合いと行っていたのだけど、そのときに自販機で買ったのがファーストコンタクト。今でもよく覚えている。その季節は11月の寒い季節で、景色も、そのときの感情も、どうしてそのレンタルショップに行ったのかも、何もかもを事細かに覚えている。

そのときにリモーネを飲んで、凄く暖かくて美味しかった。

それから僕は自販機では大体リモーネばかり飲んでいた。

確か3,4年前と言うと、僕と、一番仲が良かったI田さんとでよく夜に二人で色々と語っていたんだ。そのときに選んだ飲み物がリモーネだった。

僕の家のすぐ近くに----歩いて30秒くらいのところに----自販機があって、そこでよく100円でリモーネを買って飲んでいた。今では、その自販機は遠くに移ってしまって(今度は歩いて5分くらいのところに移った)、値段も上がっているんだけど、たまに飲みに行っている。

リモーネに関する思い出はI田さんとのお喋りだけじゃない。

もう一つだけよく覚えているのが、2005年の夏のことだ。

丁度今から1年前のこの暑い季節(※注:この文章を書いたのは2006年です)に、僕は2年ぶりに映画館で映画を見た。それが、僕の人生に多大な影響を与えた、「スターウォーズエピソードⅢ」。

そのときの光景、そのときの暑さ、そのときの感情、何もかもを僕は覚えている。

映画が始まるまで1時間半あったから、僕はリモーネを近くのスーパーで買って、サンデーを読みながら時間を潰したんだ。つまりそのときは水曜日だった、ということになる。

そして、スターウォーズエピソードⅢが始まって僕はリモーネを飲みながらあれを見た。スクリーンで見るオビ=ワンとアナキンの戦いは僕の頭の中にくっきりと焼き付いた。そのときの情景の何もかもを僕は覚えているんだ。

僕には飲み物でこんなにも思い出深いものは他に無い。大体がただの飲み物であり、それは単なる水分補給の用途でしかない。それでもリモーネだけは別格で、リモーネに関する思い出だけは今でも僕の心の中にある。

僕の中でのリモーネの思い出は色々な季節があるんだけど、リモーネは暖かいのと冷たいのとでは味が違う。僕はどちらも好きだ。

暖かくても冷たくても、僕の中ではリモーネだけは、単なる水分補給のための飲み物では無く、もっと高次元で崇高なものなんだ。それを上手く表現する言葉を僕は知らないけれど、僕にとってリモーネとはそういう存在である。


僕はどうしてリモーネが好きなのだろう、なんて考えたことはない。だって、飲み物の好き嫌いなんて、理論的に表現できるものじゃない。

この成分が何%入っている上に、こののどごし、この甘み、そしてこの匂いが重なり合っている最高のフレーバーだから私は好きなのだ、なんてことは普通言わない。飲み物の好き嫌いは、もっと抽象的で、ただそこにあるから好きなのだ。

コカコーラのCMで一時期あったけれど、飲み物の好き嫌いって『No Reason』だ。僕はそのコカコーラのいわんとしていることがよく分かる。理由なんていらないのである。理由の如何に問わず、その飲み物が存在して、自分の中の嗜好の一部と結びついた結果、好きになるのだ。

ヒマワリが好きだ、とか、青色が好きだ、とかそういうことと同じことである。そこには理由なんてものは存在しない。そして、それに関して罪悪感を抱く必要なんてまるでないのだ。

ヒマワリが好きでも、アジサイは嫌い。それでもいいのである。一体どこのどいつが「ヒマワリが嫌いなんていけないんだぁ」なんて言う輩がいるのであろうか。

本来人の好みというのはこういう自由な発想で見るべきなのである。

だから、僕がリモーネを好きだ、と言ったからと言って、「午後の紅茶の方が美味いんだ。リモーネなんてクズだ」とか、「リモーネなんて飲んでるの? イモだなぁ、今はジャワティーが一番美味いんだから」なんて言わないで欲しい。

そういうことを言いたい人達が、それぞれその飲み物を好きなように、僕はリモーネという紅茶が大好きなのである。そういうものは自由でいいはずなんだ。それが個人の自由というヤツなのだ。

 

そうこう書いているうちにリモーネが飲みたくなってきてしまったではないか。まぁ、それはこんな論点で書こうと思い立った僕が全面的に悪い。それは重々承知だ。

この文章を書き終えたら、リモーネを買いに行こう、と思っているんだけど、この文章のオチがさっきから全然浮かばないから、強制終了してリモーネを買いに行こうと思います。

ちゃんとオチろ? ちゃんと最後まで終わらせろ?

今の僕にとって、最後のオチよりも重要なものはリモーネを飲むことなのだ。

それが僕とリモーネの絆というヤツで、これは切っても切り離せない。何年も前から絆を結んでいるんだ。僕とリモーネは結びついている。

だから飲みたいのだ。


でも、こういう文章を書いていて、後半の文章からリモーネを飲みたくなるなぁ、とは思うけれど、前半の文章からトイレに行きたくなるなぁ、と思うことはない。まぁ、当たり前のような話だけど、何だか不思議な感じがするものである。その差違はどこから来るのだ、なんてね。

と書いていたら、トイレに行きたくなってきた。どっちかはっきりしろ、って話で申し訳ないけれど。

これが文章の力か、と思ったけれど時計を見ると、90分くらい経っていることが発覚して、何だいつものトイレサイクルが巡ってきたのか、と思うわけである。

それじゃ、キリがいいのでトイレに行ってからリモーネを買ってきます。

それでは、また。

 

まことに不謹慎ながら僕はあの人に一目惚れしてしまった。

今の僕の心の中には昔の人の記憶がある。とてもおてんばで、とても古風で、とても扱いづらく、そしてとても従順なような相手だった。その記憶が僕の心の中に今でも存在している。

昔の相手はこうだった。昔の相手はこう考えた。昔の相手はこう動いた。昔の相手はこうしてくれた。昔の相手は僕のそばにいた。でも、別れた。だからその人のことを考える時、自然と過去形という形式になってしまう。だって、別れたのだから。

それから僕は新しい相手と出会い、そして今共にいる。

その相手は昔----何年も前の僕がまだ子供だった頃に最もそばにいた相手だった。ただ僕はまだ子供だった。相手の良さに気付くだけ大人にはなっていなかったし、その当時はその人がいるのが当たり前だと思っていた。そして僕らは自然と違う道を歩むようになった。

数年の月日が経ち、そして僕らは再会した。

それからはずっと一緒にいる。今の僕にはその人の良さが分かるようになった。ちょっと小さめで、でも僕と寄り添うように一緒にいてくれるそんな相手。

僕は幸せだった。時々昔の人の記憶が僕の心の中で暴れ、台風のように去っていく。その時僕の心はきつく締め付けられ、そして記憶がフラッシュバックのように蘇る。僕がバカだったこと。僕が傷つけたこと。僕が悲しませたこと。フとした拍子に蘇る。

でも、それを今の相手に言うわけにはいかない。言ったとしたら悲しませるだけだろう、傷つけるだけだろう。僕は僕の心の中に存在している記憶と今の想いとの間で苦しんでいる。この苦しみは僕だけにしか分からない。僕だけがわかり、僕だけが苦しんでいる。そこに何人たりとも踏み入ることはできない。永遠の呪縛。

そんな長い苦しみを味わっていたあの日、あの時、あの場所で、僕はあの人に出会ってしまった。

一目惚れだった。この人なら僕が抱える苦しみを解放してくれる。救ってくれる。赦してくれる。まるで僕と出会うことが運命であったかのようにこの人は僕とピッタリだった。僕の望みも、僕の小さな背格好も、僕の求めていたものも何もかもがピッタリだった。

出会った瞬間にこの人しかいないと思った。いや、思ったではない、本能の部分で感じたのだ。神という存在がいるとするならば、そんな大きな存在が僕に与えてくれた唯一の相手であると一瞬で理解したのだ。

そして、この人と出会った時のシチュエーションも良かった。僕は一目惚れしてしまった。昔の人の記憶があるというのに。今の人との関係があるのに。

僕は昔の人の記憶という過去の中で生きたいのではない。僕は今の関係という現在の中で生きたいのでもない。僕は出会った相手とこれから先、ずっと共にいるという未来の中で生きたいと強く思ったのだ。

過去でも、今存在している現在でもない。もっと正確に言うのならば、「未来に繋がる現在を生きていきたい」ということだろう。

でも、その道はきっと悲しみと更なる苦しみの道だろう。今でさえも苦しんでいる僕が更なる苦しみの道を歩む? そんなこと本当にできるのか? でも、この人ならば僕の苦しみを解放してくれる。救ってくれる。赦してくれる。そんな相手のはずなんだ。僕はそう確信している。この相手じゃないとダメなんだ。

だから僕は迷わない。今この時をもって僕は今まで進んできたレールとは別のレールを進んでいく。もしかしたら、そのレールを変えて進むというその行為自体が僕という人生の大きなレールのうちのひとつかもしれない。でも、今の僕にとっては新しいレールなんだ。

そのレールを僕は進んでいく。出会い、一目惚れしてしまったこの人と一緒に歩むというその道を。これから先、ずっと、死が二人をわかつまで----。

--------

 


と言うわけで、新しいマウスを買ったという話です。

いやー、新しいマウスを買ったけれど、今までの二つのマウスとはまったく別物だよ、本当に。

一番最初のヤツはパソコンを買った時に一緒に箱に入っていた純正のマウスなんだけど、それは動きがかなり重いから力が必要だった。でも、長く使っていたからその時の記憶が「過去の記憶」として結構鮮明に頭の中に残っているんだよね。

二番目----新しいマウスを買う前に使っていたマウスはかなり昔に使っていたヤツを引っ張り出してきて使っていたんだけど、純正に比べたらかなり良いマウスだった。昔使っていた時は僕もまだパソコン関係のことを今ほど考えていなかったからこんなに良いマウスだとは知らなかったんだよね。

そのマウスを使っていたから社外製のマウスを使えばかなり便利じゃねぇか? と思ってマウスを探し回った末にとうとう僕の求めていた理想通りのマウスに巡り会うことができて、その場で一目惚れをした。

僕の望み通りの機能があったし、それに男にしてはかなり小さい手にもフィットする形状になっている。

しかも、そのマウスが高性能なレーザーマウスのくせに、ちょっとだけ性能が良い光学式マウスと同じ値段だったというシチュエーションのために余計に想いの熱が高まってしまったんだ。

それ以来僕はそのマウスのことばかり考え、そして先日その一目惚れをしたマウスを買った、というストーリーをなんかまぁ……僕が勝手に物語風にしてみただけ。

上の物語と下に書いたマウスの説明は対応しているので、えーと……まぁ、暇な人は見て下さい。間違ったことは何一つ書いていない。僕にとってマウスだって生命を持った人であると考えているので。

って言うのはいささか強引かな。

でもまぁ、これは書いていて楽しかったです。スラスラスラーっと文章が浮かんできて、僕の置かれていた状況と思いを誤解を招くような書き方で書くことができた。誤解が招けていたかどうかは知らないし分からないけれど、書いている僕個人としてはすごく楽しかった。

それはともかく、この新しいマウスはかなりのお気に入りだ。当たり前の話だけれど、普通にパソコンで何かをする時に最もよく使うハードウェアというのはマウスなわけで、つまりマウスを快適なものに変えるだけでかなり快適なパソコン環境になるということだ。

もっと早くにそれを知ることができていたら良かったな、なんて思うけれど、今この瞬間に巡り会えたことに大きな意味があるんだよね。

最後にマウスの写真をアップしてこの文章は終わりだ。

と言うか、僕はこういう場所に写真とか画像をアップしたことがないのでそれを今から試行錯誤する、という意味合いの締めくくり方なわけです。
 

追記:画像をアップして表示させるのにかなりの時間を要した。ややこしい作りなんだよな、このブログは。なんて言っても使い続けているわけだけど。

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僕は普段部屋にいて何かをする時には基本的に音楽をかけて何かをしている。

もちろん、するものの種類によっては流さない時もある。例えば、パソコンでDVDを見ている時に音楽なんてかけたら邪魔ですよね? 流さない時というのはそういうことです。

多くの人が想像するであろうことを前もって否定しておくけれど、僕は音楽を大音量で聴く人ではない。iPodで音楽を聴く時も音は最低限の音量しかないし(僕のイヤホンは外音をそこそこ遮断するのです)、部屋でも流れている音量はかなり小さい。

もともと僕は耳が良い方なので大音量のものは聞きたくない。耳が僕の武器となっている、と書いても多少の誇張はあるかも知れないけれど、聴力によって助けられている場面がかなりあるからあながち間違いを書いているわけではない。と言うか大音量で聞くのは好きじゃないんだ。簡単に言うと。

本を読む時や勉強をする時は耳に入りはするけれど、僕の身体の中に留まることなく過ぎ去っていく程度の音量だ。つまりは、文字通りBGMってことですね。だから勉強している時とかは何が流れていたのか知らないで次の曲に移っている。

おそらくこう書くと「だったら音楽なんて必要ないじゃないか」と言われそうだけれど、そうではないんだ。僕は音楽が流れていないと落ち着かないし、集中も出来ない。沈黙に耐えられない。

何かが流れていて欲しい。

けれど耳に残るほど耳を傾けているわけではないし、またそれを求めない。

なので基本的に僕が一人で何かをする時は小さい音量でBGMが流れている。


勉強をする時とか、部屋でのんびりしている時とか、色々なシチュエーションで音楽を流しているけれど、聴く音楽は僕が好きな音楽だったらこだわりはない。ただ、いくらなんでも何ヶ月も同じMDなりCDの音楽を聴くのは飽きるのでたまに交換はしている。

そんなわけだけど、唯一音楽にこだわる場面が僕にはある。

それは、こうやって「文章を書く時の音楽」。

僕は文章を書く時はかなりの集中力を持ってして文章を書いている。逆を言うと、集中していないで文章なんて書くことはできない。書き始め、だんだんと集中していき、さらに最高レベルの集中力で無心の境地に達し文章という音楽を奏でる。

だから文章を書いている時の音楽はまさしく僕の身体の内側を素通りするように通り抜けていく。僕の内面に留まることはあり得ない。

そうなってくると歌詞の言葉の意味を聞いているわけでもないので文章を書いている時には音声というものは必要ないんだ。日本語でも英語でも何でも良いけれど、歌詞が入っている歌だと僕の内側にちょっと引っかかりながら出て行くことになる。そうなるとうまく集中する環境が作りにくい。

歌詞の入っている歌は僕にとっては心の中に微妙に引っかかり、ささくれを作っていくかのような感じなのだ。そしてその小さな傷口から僕の心の中の平静が失われていくことにもなりえる。

水面に石を投げ入れるようなものだ。

僕の心は揺れ動くことのない均整の取れた泉。そこには何一つ存在しない。自我も、世界も、時間も、理由も、結果も。ただの泉があるだけだ。僕の心にささくれを作っていく音楽はその泉の中に石を投げかけていく。石を投げかけられた泉はインパクトの瞬間に水柱を作り、そして波紋を作り出す。その波紋が出来ると僕は現実の世界へと戻らされることになる。

文章を書く時、最高レベルの集中力に達するとある種のトランス状態になる。それが解消されてしまっては僕は文章を書くことができなくなる。

他の人がどう書いているかは知らない。もっと楽な方法で書いているかもしれないけれど、僕はそうやって長いこと文章を書いてきたし、これからもそうやって書いていくと思う。僕は長い時間を経て体得したこの書き方を捨てるつもりも、変えるつもりもない。

まぁ、僕のそんな考えなんてどうでもいいですね。すいません。

話を元に戻すと、そんな心構えとか方法で文章を書く時には音声というものは必要なく、むしろ音声(歌詞)が入っていない方が集中力を作り出せるということに本当にここ最近に気が付いた。今までは普通の歌詞のある音楽を聴いていたんだ。

それに気付いたのは本当に偶然から成り立っていた。

その偶然を語ろうかとも思ったけれど、少しも面白い話なんてないから書かない。まぁ、僕の文章には少しでも面白い話なんてありませんけどね。それは重々承知だ。すいませんね、面白くない文章で。

閑話休題。

僕が出会ったその音楽とは、ある有名大作ゲームのいくつもの楽曲を一つに繋げた曲(?)だ。それはゲームの音楽なので一切の音声は入っていない。音声が入っていないから上手いこと僕の心の内側に留まることなく流れ去って行き、さらにゲームの音楽なのでノリも良い。といいことずくめの音楽だったんだ。

しかもそれだけじゃない。

いくつもの楽曲を一つに繋ぎ合わせたのでプレイ時間もかなり長い。2時間弱もあって、僕の集中力の持続時間と一つの原稿を書くのに使う時間の二つにほとんど近い。そして、そのとある有名大作ゲームの楽曲を一つに繋げた曲を僕は2つ持っている。両方とも再生時間が2時間弱で音声はほとんど入っていない。

その曲と僕の文章を書く姿勢とかやり方が合っていると気付いて以来、他の幾つかのそういうような曲を探し出してダウンロードしてきた。一番初めにあった曲は2曲だったけれど、今は5曲までに増えた。

でも、5曲に増えても「どれがいいかなぁ~」なんて選んだりはしない。だってどうせ曲の内容なんてほとんど覚えていないんだから選ぶ必要がないではないか。適当にクリックして音楽を流して僕は文章を書き始める。


もちろんこれは僕の書き方と相性が合っているだけであって、他の人に合っているやり方だとは思わない。だから、僕が文章を書いている時に流している音楽がどんな音楽なのかについて聞かないでください。参考になんてしないで欲しいし、と言うか参考になんてできないので。そういうのは自分で見つけてください。

あぁ、好奇心から質問をされても僕は答えません。

僕は何かにつけて僕の聞いている音楽を人に教えることはしないのです。

自分の好きなアーティストを人に教えたりしないし、自分がどういうCDを持っているかも教えたりしない。唯一例外的に自己紹介の欄に書いたりするのが、"Backstreet Boys"。これくらいしか僕は書かない。これは本当に例外。

何故人に聞いている音楽を教えないかの理由は幾つかある。

一つは、僕の好きなアーティストを人に教えても大半の人はまったく知らないから。

僕はかなりの割合で海外のアーティストの曲を聞いているのでそのアーティストのことを人に言ってもほとんど知らないのだ。

よく「ヤスはどんな音楽を聴いているの?」と聞かれる。

それに関して僕は「うーん、洋楽が主なものだね」なんて律儀に答える。

そうするとたいていの人は「え、どういうの聞いているの?」とか「おすすめを教えてよ」なんて言ってくる。確かにこう質問すればコミュニケーションを図れると思う。それは僕だって思う。

だけど、僕からすればこんなの当たり障りのないコミュニケーションですよ。

だってさ、それで「○○○○ってアーティストだよ」なんて言っても、「ふーん」とか「そうなんだぁ」で話は終わりだし、たとえおすすめのアーティストを教えたってその人が本当に僕のおすすめ通りにその曲を聴くとは思えない。多分本当に聞く人なんて存在しないと思う。

そんなの教えるだけ無駄じゃないか。本当に聞こうと思わない限りはおすすめなんて聞いてこないでくれ、なんて僕なんかは思うんだけど、たとえ本当に聞こうとしても僕はおすすめを言わないだろうな。なんでかって僕は人間として問題があるから。

もう一つは、僕が好きな音楽はあまり他の人に聞いて欲しくないと思っているから。

僕は自分の好きなものをみんなで共有して好きになろうとかつゆほどにも、微塵も、1mmも思わない。僕が好きなものは僕だけが好きでいればいい、そう思っている卑小な人間なのだ。ようするにここも僕は人間として問題があるってことですね。

だから、僕は自分の好きな音楽を教えない。

だから、好奇心から聞かれても僕は答えません。

なんて書いていると僕の問題点がかなり浮き彫りになるけれど、実際僕は問題のある人間なのでしょうがないです。

だからそんな僕にとってBGMと----。

 

あ、BGMが停まった。どうやら最後まで流してしまったようだ。

何だか話は中途半端なところだけれど、停まってしまったのならばもう書くのをやめよう。

なんだか「カラスが鳴いたから家に帰ろう」みたいな感じだけどね。

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プロフィール
HN:
ヤス
性別:
男性
趣味:
読書、音楽鑑賞
自己紹介:
自己紹介が苦手だ、と言う自己紹介しかできないので、文章の感じから何かを感じ取ってください。
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