【前編】からの続き。
でも一番ビックリした「気」の使い方は「かめはめ波」で心臓の止まった人間の蘇生を試みたことだ。
どうやって「かめはめ波」で蘇生を!? と思った方は映画を観てください。
ニコニコ動画の動画だったら「タグ」の部分に「かめはめ波を使った人体蘇生」とかなんとかできるんじゃないかな、なんて思う。
僕のイメージでは「かめはめ波」=「敵を倒す」もしくは「ぶっ壊す」あるいは「空を飛ぶ(この意味を分かって欲しい)」ものだと思っている。
ところが「かめはめ波」で人体蘇生――そりゃ、中国の「気」は治療や何かに使われるイメージあるけど、『ドラゴンボール』の「気」でそれをするというのも……。
「かめはめ波」で驚いたのはそれだけではない。
マンガでもアニメでも悟空なんかが「かめはめ波」を打つと、その反動から地面が砕けて足が地面にめり込みますよね。
ところが映画版の「かめはめ波」は撃つと、何故か身体が撃った方向に飛んでいきます。
どうやらマンガ・アニメ版の「かめはめ波」と映画版の「かめはめ波」はベクトルが違うもののようだ。
マンガ・アニメ版のベクトルは撃った方向と反対側のベクトル。
例を出すと――あまり良い例ではないかもしれないけど――拳銃を発射した時のように撃った方向と反対側に反動が来る、ということだ。
映画版のベクトルは撃った方向と同じ方向のベクトル。
例としては、目一杯の力の限りにボールを投げた時、ボールを投げた後に反動で自分の同じ方に倒れ込む――と言ったところだろうか。
ゴメンね、例えが下手くそで。
でまぁ、マンガ・アニメ版の感覚で考えるとまったく分からない「かめはめ波」が映画版では放たれていた。
流体力学的に吸い込まれるような形となったのだろうか? スリップストリームのような?
よく分からない。
そして最後のクライマックス。
悟空達はピッコロを滅ぼすためにドラゴンボールを集めており、そして7つ全てのドラゴンボールが集まった!!
神龍(シェンロン)を呼び出した!
って、何だあの尾の短いへんてこな龍は!! こんなものシェンロンじゃねぇ!!
原作のシェンロンは空一杯に広がるような大きく威厳のある竜なのに、映画版のはトカゲから進化する途中の竜のような尾の短い中途半端な大きさの竜……。
そして「ピッコロを滅ぼしてくれ」と言うのかと思ったら「亀仙人を蘇らせてくれ」ときたもんだ。
ピッコロとの戦いの際に死んだ亀仙人を蘇らせるためにドラゴンボールを使った――そう、つまりピッコロの件は保留です。
どう見ても続編を作ります的な終わり方で終わったわけだけど、まったくもってハリウッドの続編をほのめかす終わり方にはウンザリ感が否めない。
そりゃ続編ができれば気になるんだけど、それでも最近の映画のほとんどが続編をほのめかして終わるだけに些かウンザリする。
「またかよ」みたいなね。
「続編を作って、観てくれた人達をもう一度喜ばせたい」と言えば聞こえは良いけれど、僕には「え? 何、これ売れたの? だったら続編作ればまた売れるだろ」という感じにしか感じられない。
もっと言っちゃえば、「もうこれの続編を作るしか売れる道はないんですぅ~」としか思えない。
ちなみにこの『ドラゴンボール』は続編の制作の話が進んでいてもう脚本ができている。
それにはベジータや息子の悟飯が出てくるとか。
ところが今作がアメリカであまりに不評だったため、制作費が下りないとか何とか。
この映画はとんでもない作品だったわけだけど、不思議な点が一つだけある。
確かこの映画は鳥山明がある程度監修して作ったはずだけど、どうしてこうなってしまったのだろうか?
やはりハリウッド映画事情だろうか。
まぁあまり酷評ばかり言ってもしょうがないので、この映画の良いところを言わなければ。
この映画の良いところは原作『ドラゴンボール』の名前とその他の登場人物の名前との激しいミスマッチだ。
「悟空」という名前がトミーとかマイケルとかそういう類の名前の中にいるし、「チチ」もローザとかイザベルとかそういう類の名前の中にいるしね。
「ピッコロ」なんてまだ良いけど、「ブルマ」とかは完全にアメリカの名前から浮いている。
そういう細かい微妙なところに面白さの活路を見いだすしかない――そんな映画でした。
って、最後も結局酷評ですね。
先日――とは言っても今となってはもうとんでもないくらい前だけれど――『ドラゴンボール エボリューション』を観てきました。
平たく言えば、実写化された『ドラゴンボール』ですね。
僕はマンガ版の『ドラゴンボール』をかなり好きで、よく知り合いとドラゴンボール談義に花を咲かせているくらい好きだ。
ドラゴンボールは未だに色褪せない最高峰の作品である、と僕は思う。誇張表現かもしれないけれど。
そんなドラゴンボールを実写化するということでかなり期待していた。
ここで勘違いして欲しくないのは、期待と言うのは「ハリウッドがリメイクしたわけだからどの程度ひどいものができたのだろうか」という期待だ。
ベクトルで言えばマイナスベクトルの期待の仕方、と言えるかもしれない。
観た率直な感想。
「予想通りに、予想以上にひどかった作品だった」。
日本語としておかしな表現かもしれないけれど、つまりこういうことだ。
僕はこの作品を観る前から「多分ひどいんだろうな」と予想していて、また「これくらいひどいかな」というある程度のひどさも予想していた。
そして見始めてみると、最初の段階からして「これは予想以上にひどいかもしれないな」と予想していたら、その通りになった、とこういうわけだ。
ちょっと面倒な表現だったけれど、まぁとにかく「予想以上にひどかった」って言いたいのです。
ここからは僕がこの作品を観て思ったこと、考えたこと、感じたことなどを書くのですが、分量と書く内容の関係で今回の文章は前後編に分けて載せます。
【前編】ではネタバレ抜きの内容で、
【後編】ではネタバレを含んだ内容となっております。
僕は基本的にネタバレをするのは好きではないのですが、この映画に関してはネタバレを含めた部分にもあまりにツッコミどころが多かったのでネタバレをしています。
なのでネタバレをして欲しくない方は【後編】は見ないようにしてください。
原作の『ドラゴンボール』と言えばド派手な戦闘だけれど、実写化されると「ド派手」ではない。と言うかこれくらいの戦い方だったら最近だったら他の映画で充分やっている。
と言うか下手すりゃこの映画のアクションシーンよりもジャッキーチェンの方が派手なアクションしているかもしれないな。
つまりこの映画は「カンフー映画」なんだよね。
一応ドラゴンボールエッセンスは含まれているので、正確に言えば「カンフー映画~ドラゴンボール風」って感じだと思う。
僕は配役に関していちいち何かを言う人間ではないので配役に関しては言わない。でも一つだけ言いたいのは、僕は日本語吹き替え版を観たんだけど、悟空の声が山口勝平というのはいかがなものかと。
もちろん山口勝平を悪く言うわけではないんだけど、ちょっと気弱すぎるように映る。まぁこの映画の悟空自体がヘタレキャラなのでそういう意味合いで彼が選ばれたのかもしれないけれど。
この映画のキャラとは合っているとは思うけれど、マンガの悟空のキャラを思い浮かべると違和感を感じざるを得ない、ということだ。
おまけに悟空の一人称(自分の呼び方)が「オラ」じゃなくて「僕」というところからして違和感がかなりあるのだが……。
しかし話の進め方が面白くない。と言うか強引すぎる。
大まかなストーリーとしては単純に「ドラゴンボールを集めてピッコロを倒す」というだけなんだけど、話の進め方が強引で、尚かつ唐突すぎるんだよね。
○ドラゴンボールが見つかりました。
↓
○登場人物から(主に亀仙人)「次は○○へ行くのだ」もしくは「○○という老子(賢者)に会うのだ」と言われる。
↓
○そこで力を上げる修行をしたりドラゴンボールを見つけました。
↓
○登場人物から~
って流れだったと僕は思った。
もちろん1,2時間で収めるという事情はあるにはせよ唐突すぎるよな。
細かいところだけど、「かめはめ波」を含めた「気」の使用用途が斬新――というか「気でそんなことができるのか」とビックリした。
まず、悟空の「気」の修行の一環で「気」を使ってロウソクに火を灯す、とかね。
とてもじゃないけど原作の「気」を考えるとそんな使用用途は考えも及ばない。
これが例えば「『気』を使ってこの岩を砕け」と言われたら、『ドラゴンボール』っぽいなぁ、と思うこともできる。
ところが「ロウソクに火を灯せ」ってとんでもない「気」の使い方だ。
僕らが知ってる「気」って惑星を平気で滅ぼすものだからね。月とかナメック星とか。
まぁでも「そんな規模の戦闘が実写で為されたら映画にならない」と言われたのかもしれないけどさ、そういうところが『ドラゴンボール』の良さであると僕なんかは思うんだよなぁ。
【後編】へ続く。
僕の友人の幾人かはmixiをやっているんだけど、多くの方々は文章を書かない。
僕は人の文章を見ることが好きなので是非とも書いて欲しいと思っているんだ。
デジャビュ? えぇ、確かにそうですね。
「デジャビュが人間に何故起こるか」と言う命題に対してある一つの説の中に「デジャビュというのは前世の記憶が瞬間的に蘇ったものだ」というものがある。
と言うわけで。この出だしにデジャビュを感じた人はきっと前世でこの二行を読んだんだろうね。
あなた達の前世の頃からこういう文章を書いている僕は一体何ものなんだ、とツッコミを言われそうだけど、柔軟な考え方を持って考えると「今この文章を書いている僕はヤス2世だ」とか「これは完全なるヤスのクローンが書いているんだ」とか考えられるな。
なんてつまらない冗談はさておいて、冒頭の二行は「僕の周りの人よ、文章を書いておくれ」という内容の文章の出だしのコピペだ。
今回の文章はその内容の第二章にあたる文章です。
わぁお、随分長い前置きだ。
文章を書かない人達に「どうして文章を書かないんだよ」と聞くと(これでも僕の中では聞いています)、大方の人達は「書くことがない」とか「ネタがない」と言い返してくる。
僕もこういう文章を書いている身としては「ネタ」というものは重要なモノだということはわかっている。
わかっているけれど、僕は彼ら彼女らのそのような主張に対して決して同調しない。
そういうのは「『れんあい』の『れん』の漢字を忘れたから教えてよ」と言って「紙とペンがないから教えられない」と言うようなものだと僕は思っています。
紙とペンがないのなら最近だったら携帯の画面に打って見せてあげてもいいだろうし、紙とペンを借りてきてそれに書いてみせてあげてもいい。
もちろん口頭で教えてあげてもいい。
そういうのって「紙とペンがないから教えられない」わけだから他のやり方を考えて達成させる、という「行動」を起こしていると僕は考えている。
つまり「人間って行動すれば状況を打破することができる場合がある」というわけだ。
だからですね、ネタがないなら何かすればいいじゃないですか。
と言うと、「だったらお前は友達にシャイニングウィザードをかけろって言うのか」とか何とか反感がきそうだけど、別にネタを無理に作ることなんてないよ。
そりゃシャイニングウィザードをかけるところを動画なんかに撮れば僕は見たいけどね。
ようは考え方の話で、ネタなんてそこらへんに転がっていると僕は思う。
写真を撮ることが好きな人なんかにはよく分かってもらえると思うんだけど、写真の被写体ってそこらへんに転がっていると思いませんか?
例えば「アスファルトに一輪だけ咲いている花」とか「建物と背景のコントラスト」とか「UFOの残骸」とかそういうのってそこら辺に腐るほどある。
自分の見方次第で「単なる過ぎ去る風景」が「感性を刺激する芸術」に変えられる。
僕は文章もそうだと思っている。
ネタなんてそこら辺に無数に転がっていて、それこそ「今自分の隣を通って行った車のこと」でもいいわけだし、「散歩している犬のこと」でもいいわけだ。
もちろん「そこら辺に転がるUFOの残骸のこと」でもいい。
文章というのは考え方、着眼点次第で何でも好きなネタにすることが可能だ、と僕は頑なに思っている。
ちなみに上に挙げた例は僕が今適当に考えたことだけど、文章にできそうな感じがする。僕が何かの節に書きたいと思ったなら書こうかな、どうせ書いてくれなんて言われることないし。
そのように「行動」してネタを見つける。というか強引にでもネタにしてしまう。
だから僕の考え方としては「ネタとは作るものだ」ということになるわけで、彼ら彼女らの意見に対して同調することはあり得ないのです。
「ネタがないから作れないんだよ~」と言って仕事を放棄している寿司屋は必ずなくなってしまうよね。
でもたまたま入った寿司屋がそんな感じだったら何だか楽しい感じがしてしょうがない。
「ネタ、ないんですか?」
「いやー、ちょっとなー」
「マグロは?」
「いやー、ちょっとなー」
「サーモンは?」
「いやー、ちょっとなー」
「納豆は?」
「いやー、ちょっとなー」
「じゃあ海苔は?」
「いやー、ちょっとなー」
「何もないんですか?」
「うーん、ワサビとシャリならあるんだけどなー」
「そうなんですか」
「どうする?」
「じゃあ、『ワサビ』お願いします。さび抜きで」
「あいよ」
なんて会話が職人さんと話せたら僕のような人間は楽しくて楽しくてしょうがないと思う。
【第二章】~完~
僕の友人の幾人かはmixiをやっているんだけど、彼ら彼女らの多くの方々は文章を書かない。
僕は人の文章を見ることが好きなので是非とも書いて欲しいと思っているんだ。
人の文章を見るのは面白いですからね。
とは言ってもこの「面白い」というのは内容が面白い如何ではありません。
「お前が言うな」って言われるであろうことは間違いないだろうけれど、正直なことを言わせてもらえば内容が面白くない文章というものはこのネット上にかなりの数がある。
何がどう面白くないか、とかそういうことをあまり書くと「ヤスのくせに何様のつもりだ」と言われるだろうからこれ以上は書かないけどね。そもそも僕は誰かの何かを文章で批判する気なんてさらさらないんでね。
話の本筋とはまったく関係ないけれど、ちなみに僕は「何様のつもりだ」と聞かれた時、昔は「お子様だよ」と答えていました。
小学生とか中学生の頃だったかと思うのですが、僕にも若かった時期というのはあったのですね。遠い遠い遥か昔に――。
で、僕が人の文章の何を面白いと考えているか、って言うとそれは文章ににじみ出ている「個性」。
文章ってかなり個々人の性質――つまり「個性」――が含まれているものだ、と僕は思っている。
「思っている」というか実際そうだと頑ななまでに信じているんだ。
こうやって今僕が書いているこの文章にだって僕の個性はかなりにじみ出ていると思うし、他の方々の文章にも彼ら彼女らそれぞれの個性がちゃんと表れている。
その個性の差を見ると、「人間って色々いるんだなぁ」とか思うし、その延長上で「そうか、こういう考え方があるのか」なんて思うこともある。
そもそも何で文章に個性が表れているかと言うと、文章というものには書き手の考え方がかなり反映されるからだ。
人は考えたことを「言葉」という形で表現することができるけれど、その中でも目で見ることができる「文字」という形で表現すること――それが文章だと僕は思っている。
考え方なんて人それぞれ違うのは当たり前。
だからこそそんなものがもろに反映される文章がそれぞれ違うのは当たり前なんだ。
僕には僕の考え方がある。だから僕には僕だけの文章がある。
RさんにはRさんの考え方がある。だからRさんにはRさんだけの文章がある。
三丁目のマイケルには三丁目のマイケルの考え方がある。だから三丁目のマイケルには三丁目のマイケルだけの文章がある。
それぞれ持っているもの、考え方――「個性」は違う。
そしてそういう個性の差というものを僕は「差異」と呼んで重要視しているんだ。
僕は文章に表れる差異を見たい。感じたい。
一人として同じ個性なんてなく、つまり一つとして同じ文章なんてない。
そんな完全なる調律の上に成り立つ不完全さが面白い。
完全な不完全さを持っているんだ、人間って。
意味が分かりませんか?
つまり、「人間には一人として同じ人間なんていない」というシステムは完全に、完璧に成り立っていますよね。
でもそのシステムの中で「人と人のどこがどう違っているか」なんてまったく決まっていませんよね。
そういう観点で考えると、そのシステムはとても不完全なものだと考えられます。
僕は人間という生き物についてそう考えているので、「人間とは完全な不完全さを持っている生き物だ」と言うのです。
そしてそんな人間が創り出す文章もまたそのように考えています。
すごく抽象概念的なものを書いたけれど、こういうことを書いている僕の文章にも「個性」が表れていますよね?
もしもし僕の友人方、もっと僕に個性を――差異を――見せてくださいよ。
なんて言う僕の声はとても小さく、そしてとても頼りなげにフワフワと空中を漂い、すぐに虚空へと消え去っていってしまうんだ。
【第一章】~完~
ここのところ立て続けに映画を見たので、その映画のレビューをしたいと思います。
先日――とはいってももうかなり前――『バーンアフターリーディング』を観た。
映画の情報誌やCMを見てみると楽しそうに思えた。ブラピがiPodを聞きながらノっていたり、殴られて涙目になるヘタレっぷりがCMに出てたよね。あの映画です。
率直な観た感想。
前評判で物凄く良いことが書かれていて希望を持って観たけれど、「ガッカリ」とまでは言わないまでも「何だかなぁ」と思わざるを得なかった。
この作品の肝は、「複雑に絡み合う人間関係のリンク」だと僕は思いながら観ていた。
一人一人のストーリーが個別にあり、そしてそのストーリーが進むにつれて他の人とのストーリーと絡み合う、というのがこの映画の趣旨。
実際、「上手く絡んでいるな」という感じを受ける。
でも、「この人はどういうストーリーの流れで他の人のそれと絡み合っているのだろう」と上手く整理しないと分からない部分がある。
まぁこれはただ単に僕の理解度の低さと頭の悪さから来る問題かもしれないけどさ。
つまり、よくよく考えれば上手く絡み合っているけれど、話の展開が少し早いと感じてしまう部分がある、ということだな。
まぁ、2時間以内という制約がありつつ人間のドラマを描くのだから致し方ないと言えば致し方ないことではある。
でもラストの終わり方はあれで良かったのだろうか?
もちろんネタバレはしないから言わないんだけど、あれで良いのだろうか。
そういうのは僕の価値観と第三者のそれとの違いから生まれる類の話だろう。
とはいえ、「僕と他の人との感じ方の違い」という個人的な問題の違いか、はたまた「僕(日本人)と他の国の人との感じ方の違い」という文化的な問題の違いなのかはわからないけれど、何かしらのズレはあると感じている。
もちろんそのズレのようなものはラストの締めくくり方だけではなく、作品全体において言えることだ。
例えばこの映画のジャンルはコメディ映画なんだけど、申し訳ないとは思っているが、敢えて言わせてもらうと僕はこの映画がコメディ映画だとはあまり思わなかった。もっと端的に言えば「思えなかった」と言ってしまえるかもしれない。
もうその時点でズレが生じている。
映画然り、音楽然り、絵画然り……個人の感性や嗜好、価値観や価値基準などにより捉え方が千差万別な芸術という類のものにはこういうズレは付きものであるわけだ。
だから、「僕が抱いた思い」というのはある側面では正しく、ある側面では正しくはないわけで、同様に「第三者が抱いた思い」というのもある側面では正しく、ある側面では正しくはないことになる。
えーと、小難しいことを書いて何が言いたいかって言うとですね、まず一つは「ここに書いたのは僕が個人的に思ったことだから正しいか正しくないかは分からないよ」ということと「大方の場合、僕の抱くことは一般的な意見でないことが多いよ」ということを言いたいのです。
それをあぁだこうだと小難しく書きました。
このような行為と言うのは「1+1=2」という数式を「5+4-1+2-3-7+2=2」と考えるような行為ですよね。
申し訳ありません、シャイなのです。
こういうのはシャイとは違うか。
シャイかどうかはさて置いて、僕は彼女さんから「ツンデレだ」と言われるのですが、よくよく考えると「僕はツンデレかもしれない……」と思うようになりました。
そしてその延長上で考えるのですが、
「あなたツンデレですよね」と言われて
「いや、私はツンデレじゃないですよ~」と答える人が結構いるんじゃないかと勝手に思っているのですが、逆に
「あなたツンデレですよね」と言われて
「うん、僕はツンデレなんですよ~」と答えるというのはよくあることなのでしょうか?
また、そういう「自覚症状を持つツンデレ」というのは何かおかしなことがあるのでしょうか?
と書いていて気付いたのですが、重なってますね、「天然」と「ツンデレ」が。
過去:「僕はツンデレじゃありません」
↓
現在:「僕はツンデレかもしれないな」
↓
未来:Unknown...
こういう変化を成長と呼べるのかどうかは怪しいものです。
ソフトバンク製の831SHという携帯に機種変更をしてからかれこれ2週間近くが経つ。
2週間近く使ってみての感想なんかのレビューを今回書こうと思う。
とは言っても参考にする人なんているのかどうか知らない。でも僕自身、この携帯に機種変更をする時にネットで色々と調べてから買ったという経緯があるので見る人は見るかもしれない。
もちろん見ない人は見ない。
僕が831SH(以下831)に替えたのは発売日と同じ2009年2月13日。
前までは810SH(以下810)という同じシャープ製の携帯を使っていた。と言うか僕はシャープ製以外の携帯を使う気がまるでないんだけどね。一貫としてシャープの携帯しか使っていないんだ。
810から831に替えた時に何に戸惑ったってキー配列が変わったことにすごく戸惑った。
『通話キー/終了キー』と『ショートカットキー/テレビ(810はメディアプレイヤーキー)』の配列が綺麗に入れ替わっている。つまり『通話キー/終了キー』が下に下がり、『ショートカットキー/テレビ』が上に上がった形で入れ替わっている。
語弊のある言い方かもしれないけれど、左右に入れ替わったのではなく、あくまで上下に入れ替わったのだ。
それが何に影響を与えるかと言うと、メールなどの文章を打つ場面で多大な影響を与えることとなる。
ご存じの方は多いと思うが、シャープ製の携帯で文章を打つ際、『ショートカットキー』を押すと文字の大文字小文字が切り替わり、『通話キー』を押すと逆順に文字が打てる。
つまり、「あ」と入力し、『ショートカットキー』を押すと「ぁ」に切り替えられ、同じく『通話キー』を押すと逆順になり「ぉ」と打ち込めるということだ。
810から831へとなるとそれらのキーの配列が上下逆になってしまったので前までのメールを打つ動作に慣れているとかなり戸惑う。僕もそれを矯正するのにかなりの時間を要した。
それが一番戸惑ったことだった。まぁ、810以降のシャープ製のものから831に替えたらそんなことはないかもしれないけれど。
細かい変更点で僕が気になっているのは『数字キー』にショートカットを割り振れなくなったこと。
810の時は『ショートカットキー』を押して、ショートカットの設定で機能を割り振ると、その割り振った先の数字に対応した数字を長押しすれば機能を起動させることができた。
例えば『ショートカットキー』を押して、「3」の欄に「アラーム」を設定したとしたら、通常時に「3」を長押ししたら「アラーム」が起動される、ということだ。
しかし831にはそのような機能はない。
『ショートカットキー』で数字に機能を割り振ろうが、数字を長押しして出てくるのは電話帳の検索画面だ。
例えば「1」を長押しすると電話帳が開き、「あ」から始まる人の名前が表示されるというものだ。
僕としてはこの機能、すごくいらない。810の時のようにショートカットに割り振った機能が起動して欲しい。それによって非常に作業が早くなったというのにね。
その代わり、『上下左右キー』と『メールキー/ヤフーキー』に長押しした際に起動する機能を割り振ることができる。
でも4つしかない上にデフォルトの設定がなかなか便利な機能に割り振られているので実際使い物にならない。僕が変更したのはたった二つだけだ。
デザイン面の話は完全に個人の嗜好に左右されるだろうからあまり言わない。
色々な携帯のデザインの評論の通り、831は今まで斬新なデザインを出してきたシャープにしては変わり映えのないデザインであると言えるかもしれない。
実際810のデザインはもう何年も使っているけれど、未だに気に入っているし、すごく個性的だと思う。
まぁ、これは個人の嗜好の問題だな。
店頭などにある携帯の模型に触れるとキー(ボタン)が浮き上がるような形になっており押しやすいと思うだろう。
確かにこのキーは押しやすい。平坦なキーではなく、盛り上がっているので押しやすい。
でも盛り上がってはいるもののキー自体の幅が少し狭いので他の場所のキーを押してしまうことが多々ある。まぁ使用者の指の大きさの問題かもしれないけれど、確実に言えることは模型と実機とでは多少感覚に違いが生じている、ということだ。
あと充電器を差し込む際にフタのようなものを開けるのだけど、フタを開けても充電器が差し込みづらい。もうちょっと考えて設計して欲しいと思う。
感覚的な話かもしれないけれど、この携帯は電池の持ちが悪いように感じる。
僕が使ってきた携帯は大体、買って間もなくは3日とか4日に1回くらいの充電で事足りるはずだったけれど、831は2日に1回くらいはしている。
確かにカタログ値が他の携帯よりも起動時間が短く記載されているけれど、使ってみたら確かに電池の減りが早い。
もちろんこれも個人の環境の違いによるだろうが、それでも僕はハードユーザーだという感覚はまるでないんだけどなぁ。810の時だってもっと保ったことを考えるとやはりこの携帯の電池は……?
電池と言えば、画面右上の電池メーターがパーセント表示なのは意外と分かりやすい。もちろん概算でしかないだろうけれど、それでもある程度の使用度は分かるので使ってみると案外分かりやすいと感じると思う。
物凄く個人的なことだけど、データフォルダを開いてSDカードと本体を切り替えるのがワンタッチでできた方が楽だと感じる。
810はデータフォルダを開いた時に『ヤフーキー』を押すとSDカードと本体をワンタッチで切り替えられた。そしてそれは非常に使いやすく感じていた。
ところが831で『ヤフーキー』を押すと、ツリー表示にするかしないかが変わるだけだ。僕にとっては正直この機能はいらない。
しかし、810に比べると処理速度は目を見張るものがある。まぁ810が物凄く遅かっただけなんだろうけどさ。
831は処理速度が速く、またページの開き方が視覚的に面白味を感じる。
ページの開き方、というのは例えば「設定」を開いて「ディスプレイ設定」を選んだ時に下から広がるようにページが開くこと。僕が使った携帯にはそういうものがなかったので視覚的に楽しみを感じている。
あと『タブ切り替えキー』を押してタブを切り替える際、画面がクルッと回転するように切り替わるのもすごく楽しい。表示内容によって回転しない時もあるのだけどね。
ウィジェット機能があるけれど、これは使い込む人には便利だと思う。
僕は810を使っていた時に大体の機能を早く表示させるような感覚を養っているので、ウィジェット機能をほとんど使うことはない。
「こうすれば楽だろうな」と思うことはあるけれど、わざわざウィジェットを起動させるというのも正直面倒なのだ。他の表示に比べてウィジェットを起動させるには時間がかかるから。
だから僕は使わない。でも創造の仕方や使いようによっては非常に便利だと思う。
これは前々から思うんだけど、シャープ製の携帯ももうちょっと画像の編集ができるといい。
パソコンで画像を編集しているために過度の期待を寄せているという可能性もあるけれど、もうちょっと編集したい。
ディスプレイサイズ自体がかなり大きくなったのだから、画像の長さを伸縮できてもいいんじゃないかと僕なんかは思う。
せめて画像に書き込める文字のサイズを変更させられるようにして欲しいものだ。
810のメディアプレイヤーとは若干仕様が異なっている。
音楽をランダム再生する際、810の時はリストにある曲の中から完全なランダムで選曲されていたが、831では未再生の曲の中からランダムに選曲されるように変わった。
大した変化ではないけれど、そこも変わった点の一つだ。
昔のシャープ製のものにあって、810になかったメールの機能の一つに、「チャットフォルダ」がある。831ではこれも復活している。
「チャットフォルダ」とは、フォルダに一人以上の人を設定しておくとあたかもチャットのようにメールのやり取りが表示される機能のことだ。
810に替えた時にこの機能が無くなっていて結構ショックを受けたものだけど、ないならないで何とかなるという考え方になってしまったので831で復活していても大して喜びは感じなかった。
でも人によっては非常に便利な機能の一つであるはずだ。
色々と書いてきたけれど、これらは慣れてしまえばどうにかなることが多い。
でも僕が一番気になるのがスピーカーの位置。
810の時はサブディスプレイ側の面にスピーカーがあるのだが、831はサブディスプレイ側の面にはなく、電池パックのある側の面、つまり裏側にある。
僕は携帯を置く時にはサブディスプレイ側を上にして置くようにしている。そうして置くとスピーカーが下のために音がこもって音量が小さくなるし、例えば布の上に置いたりすると布によって見事に音が消えてしまうことにもなる。
スピーカーの位置がサブディスプレイ側にあれば何も言うことはないのだけど、僕はその点が一番気になっている。慣れの問題ではないからね、これは。
あと、これは検証していないのだけど、シャープ製のものは概して言えばバイブが強くて音も大きいのだけど、831では弱くなって音も小さくなった感じを受ける。
勘違いかもしれないけれど、そのような疑念を抱くこともある。
831に替えてから思っていたことはざっとこのようなものだろうか。
もちろんこれは僕の主観的に気にした点であり、他の人が触ればもっと色々なことを思うだろう。まぁ、こういうこともあるんだよ、と参考にしていただければ嬉しい限りです。
この文章が誰かの力になればいいな、と思う。ならなかったらならなかったでしょうがないけどね。
そんなわけで『ヤス的831SHレビュー』でした。非常に長い文章でゴメンぬ。
この文章は数年ほど前に書いたけれど、結局日の目を見ることなく保存されていたものを引っ張り出してきた文章です。
数年ほど前と古いため結構おかしなところはあるけれど、気にしないでください。
先ほど読み返したけれど、歴史を感じるね。「人に歴史あり」とはよく言ったものです。
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今回のお話の前半は、少しビロウな話----短絡的に言って下品な話の部類に属するので、その手のことが見たくない方は中盤から見るなり、このページを閉じるなり、何かしらの手段を試みてください。
僕は水があればとりあえず生きていけると思う。
あまり、食欲というものは無いけれど、飲欲(新語)は結構ある。
僕は、よくのどが渇く人なので、普段から部屋に500mlのペットボトルを常備したりして、常に飲んでいる。最近は暖かくなってきたから部屋に常備すると一日二日でペットボトルの中の飲み物が駄目になってしまうので、常備はしてないけれど、冷蔵庫の中には僕専用のペットボトルの中に麦茶を入れてそれを飲んでいる。
それと関係があるようで全くないんだけど、僕はトイレが物凄く近い。
普通の人のトイレの近さが100m走くらいの長さだとすると、僕は25m走くらいの近さだ。
当然トイレに行く回数が人の何倍も多い。
僕は毎年冬になると気の合う仲間数人で鍋をつついて暖をとったりするんだけど、そういうとき、僕の真価は発揮される。
他の人が全行程を通じて----というのが適切な表現であるかどうかは分からないんだけど----1回か多くても2回行くところを僕だけは5回くらい行ったりする。
そうなると当然、その友人から「ヤスってトイレ近いなぁ」と言われることになる。僕は自分がトイレが近いことを自覚しているし、それを悲観的に取っているわけでもないので、何言われても別にさしたる問題ではない。正直どうでもいい。
僕の行動パターンから割り出された"トイレに行く頻度"と言うのは、大体60~90分間に一回の割合で行くという統計が出ている。これは本当に僕の普段の生活から割り出したかなり正確な数値である。
つまり、僕のトイレサイクルは大学の講義1時限分ということになる。だから僕は講義が終わるたびにトイレに行っている。理論的な話じゃなくて、具体的に本当に僕は講義が終わるたびにトイレに行っている。
僕は何でも、法則性を探すのが好きなので、トイレに関するサイクルにも法則性を見いだしているのだ。
でも、そうやって自分の体内にあるサイクルが分かっているというのはかなり楽である。
それは、トイレのサイクルでも、テンションのサイクルでも、頭の回る時間のサイクルでも何でもそうだ。例えば、テンションのサイクルが分かっていれば、自分がどんなときにテンションが高くなって、どんなときに低くなるのかが分かる。そうすれば、高くなっているときに色々とやろう、とか低くなりそうだから少し控えよう、とか意識することが出来る。
僕のトイレのサイクルもそんな感じである。
これは90分以上かかるだろうから、先にトイレに行っておこう、とか考えて行動するわけである。そういうのって凄く楽だ。
というか、普通の人間って自分のトイレのサイクルが分かってないだろうと僕は思う。こんなトイレのサイクルの話なんて他人としたことがないから確証が持てるわけじゃないけれど、そうであろうと僕は想像する。
いつ尿意を催すか分からないから、授業中とか大事なときに急にトイレに行くことになる。
僕にはそれがない。自分がどれくらい経ったらトイレに行くのか分かっているからそんなことはない。便利と言えば便利、である。
どうして僕のトイレがこうも近いのか、と言うことをたまに考えるけれど、その答えはもう既に出ている。別に文章上で書くことでもないだろうから書かないけれど、僕にはその原因が分かっている。そして、その答えの中には、僕がどうして水分を取るのか、という問いの答えも含まれているのだ。
それらはある一つの事象から派生的に二股に分かれて生まれてきた要因なのだ。だから元を正せば、二つの要因は一つの事象に結びつく。
僕が普段よく飲んでいる飲み物は大体がお茶だ。一番飲んでいるのは「生茶」。次が時季によるけれど、麦茶。それくらいしか飲まない。出かけるときも生茶を持って行っている。昔は水にしていたんだけど、いつの間にかお茶系統になってしまっている。
水の中で一番好きなのは、断然「ボルヴィック」。
これは今まで飲んできた水の中で一番美味しい。でも、高いんだよね。なかなか100円以下にならないから、そんなに頻繁には買えない。誰かに奢って貰うときとかはこれをチョイスしている。飲みたいけれどなかなか飲めない飲み物の一つだ。
何に関してもそうなんだけど、僕は選ぶときには自分の気に入っているものしか選ばない。偏愛主義と言うか、盲目的と言うか、初志貫徹というか、何というか…。だから、僕が選ぶ飲み物と言うのは凄く限られてくるんだ。
上二つの他に、僕がよく飲んでいると言えば、リプトンから出ている「リモーネ」と言うレモンティーをよく飲んでいる。
始めて僕がリモーネと出会ったのは、かれこれ3,4年前だ。
とあるレンタルショップに知り合いと行っていたのだけど、そのときに自販機で買ったのがファーストコンタクト。今でもよく覚えている。その季節は11月の寒い季節で、景色も、そのときの感情も、どうしてそのレンタルショップに行ったのかも、何もかもを事細かに覚えている。
そのときにリモーネを飲んで、凄く暖かくて美味しかった。
それから僕は自販機では大体リモーネばかり飲んでいた。
確か3,4年前と言うと、僕と、一番仲が良かったI田さんとでよく夜に二人で色々と語っていたんだ。そのときに選んだ飲み物がリモーネだった。
僕の家のすぐ近くに----歩いて30秒くらいのところに----自販機があって、そこでよく100円でリモーネを買って飲んでいた。今では、その自販機は遠くに移ってしまって(今度は歩いて5分くらいのところに移った)、値段も上がっているんだけど、たまに飲みに行っている。
リモーネに関する思い出はI田さんとのお喋りだけじゃない。
もう一つだけよく覚えているのが、2005年の夏のことだ。
丁度今から1年前のこの暑い季節(※注:この文章を書いたのは2006年です)に、僕は2年ぶりに映画館で映画を見た。それが、僕の人生に多大な影響を与えた、「スターウォーズエピソードⅢ」。
そのときの光景、そのときの暑さ、そのときの感情、何もかもを僕は覚えている。
映画が始まるまで1時間半あったから、僕はリモーネを近くのスーパーで買って、サンデーを読みながら時間を潰したんだ。つまりそのときは水曜日だった、ということになる。
そして、スターウォーズエピソードⅢが始まって僕はリモーネを飲みながらあれを見た。スクリーンで見るオビ=ワンとアナキンの戦いは僕の頭の中にくっきりと焼き付いた。そのときの情景の何もかもを僕は覚えているんだ。
僕には飲み物でこんなにも思い出深いものは他に無い。大体がただの飲み物であり、それは単なる水分補給の用途でしかない。それでもリモーネだけは別格で、リモーネに関する思い出だけは今でも僕の心の中にある。
僕の中でのリモーネの思い出は色々な季節があるんだけど、リモーネは暖かいのと冷たいのとでは味が違う。僕はどちらも好きだ。
暖かくても冷たくても、僕の中ではリモーネだけは、単なる水分補給のための飲み物では無く、もっと高次元で崇高なものなんだ。それを上手く表現する言葉を僕は知らないけれど、僕にとってリモーネとはそういう存在である。
僕はどうしてリモーネが好きなのだろう、なんて考えたことはない。だって、飲み物の好き嫌いなんて、理論的に表現できるものじゃない。
この成分が何%入っている上に、こののどごし、この甘み、そしてこの匂いが重なり合っている最高のフレーバーだから私は好きなのだ、なんてことは普通言わない。飲み物の好き嫌いは、もっと抽象的で、ただそこにあるから好きなのだ。
コカコーラのCMで一時期あったけれど、飲み物の好き嫌いって『No Reason』だ。僕はそのコカコーラのいわんとしていることがよく分かる。理由なんていらないのである。理由の如何に問わず、その飲み物が存在して、自分の中の嗜好の一部と結びついた結果、好きになるのだ。
ヒマワリが好きだ、とか、青色が好きだ、とかそういうことと同じことである。そこには理由なんてものは存在しない。そして、それに関して罪悪感を抱く必要なんてまるでないのだ。
ヒマワリが好きでも、アジサイは嫌い。それでもいいのである。一体どこのどいつが「ヒマワリが嫌いなんていけないんだぁ」なんて言う輩がいるのであろうか。
本来人の好みというのはこういう自由な発想で見るべきなのである。
だから、僕がリモーネを好きだ、と言ったからと言って、「午後の紅茶の方が美味いんだ。リモーネなんてクズだ」とか、「リモーネなんて飲んでるの? イモだなぁ、今はジャワティーが一番美味いんだから」なんて言わないで欲しい。
そういうことを言いたい人達が、それぞれその飲み物を好きなように、僕はリモーネという紅茶が大好きなのである。そういうものは自由でいいはずなんだ。それが個人の自由というヤツなのだ。
そうこう書いているうちにリモーネが飲みたくなってきてしまったではないか。まぁ、それはこんな論点で書こうと思い立った僕が全面的に悪い。それは重々承知だ。
この文章を書き終えたら、リモーネを買いに行こう、と思っているんだけど、この文章のオチがさっきから全然浮かばないから、強制終了してリモーネを買いに行こうと思います。
ちゃんとオチろ? ちゃんと最後まで終わらせろ?
今の僕にとって、最後のオチよりも重要なものはリモーネを飲むことなのだ。
それが僕とリモーネの絆というヤツで、これは切っても切り離せない。何年も前から絆を結んでいるんだ。僕とリモーネは結びついている。
だから飲みたいのだ。
でも、こういう文章を書いていて、後半の文章からリモーネを飲みたくなるなぁ、とは思うけれど、前半の文章からトイレに行きたくなるなぁ、と思うことはない。まぁ、当たり前のような話だけど、何だか不思議な感じがするものである。その差違はどこから来るのだ、なんてね。
と書いていたら、トイレに行きたくなってきた。どっちかはっきりしろ、って話で申し訳ないけれど。
これが文章の力か、と思ったけれど時計を見ると、90分くらい経っていることが発覚して、何だいつものトイレサイクルが巡ってきたのか、と思うわけである。
それじゃ、キリがいいのでトイレに行ってからリモーネを買ってきます。
それでは、また。
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