【前編】からの続き。
でも一番ビックリした「気」の使い方は「かめはめ波」で心臓の止まった人間の蘇生を試みたことだ。
どうやって「かめはめ波」で蘇生を!? と思った方は映画を観てください。
ニコニコ動画の動画だったら「タグ」の部分に「かめはめ波を使った人体蘇生」とかなんとかできるんじゃないかな、なんて思う。
僕のイメージでは「かめはめ波」=「敵を倒す」もしくは「ぶっ壊す」あるいは「空を飛ぶ(この意味を分かって欲しい)」ものだと思っている。
ところが「かめはめ波」で人体蘇生――そりゃ、中国の「気」は治療や何かに使われるイメージあるけど、『ドラゴンボール』の「気」でそれをするというのも……。
「かめはめ波」で驚いたのはそれだけではない。
マンガでもアニメでも悟空なんかが「かめはめ波」を打つと、その反動から地面が砕けて足が地面にめり込みますよね。
ところが映画版の「かめはめ波」は撃つと、何故か身体が撃った方向に飛んでいきます。
どうやらマンガ・アニメ版の「かめはめ波」と映画版の「かめはめ波」はベクトルが違うもののようだ。
マンガ・アニメ版のベクトルは撃った方向と反対側のベクトル。
例を出すと――あまり良い例ではないかもしれないけど――拳銃を発射した時のように撃った方向と反対側に反動が来る、ということだ。
映画版のベクトルは撃った方向と同じ方向のベクトル。
例としては、目一杯の力の限りにボールを投げた時、ボールを投げた後に反動で自分の同じ方に倒れ込む――と言ったところだろうか。
ゴメンね、例えが下手くそで。
でまぁ、マンガ・アニメ版の感覚で考えるとまったく分からない「かめはめ波」が映画版では放たれていた。
流体力学的に吸い込まれるような形となったのだろうか? スリップストリームのような?
よく分からない。
そして最後のクライマックス。
悟空達はピッコロを滅ぼすためにドラゴンボールを集めており、そして7つ全てのドラゴンボールが集まった!!
神龍(シェンロン)を呼び出した!
って、何だあの尾の短いへんてこな龍は!! こんなものシェンロンじゃねぇ!!
原作のシェンロンは空一杯に広がるような大きく威厳のある竜なのに、映画版のはトカゲから進化する途中の竜のような尾の短い中途半端な大きさの竜……。
そして「ピッコロを滅ぼしてくれ」と言うのかと思ったら「亀仙人を蘇らせてくれ」ときたもんだ。
ピッコロとの戦いの際に死んだ亀仙人を蘇らせるためにドラゴンボールを使った――そう、つまりピッコロの件は保留です。
どう見ても続編を作ります的な終わり方で終わったわけだけど、まったくもってハリウッドの続編をほのめかす終わり方にはウンザリ感が否めない。
そりゃ続編ができれば気になるんだけど、それでも最近の映画のほとんどが続編をほのめかして終わるだけに些かウンザリする。
「またかよ」みたいなね。
「続編を作って、観てくれた人達をもう一度喜ばせたい」と言えば聞こえは良いけれど、僕には「え? 何、これ売れたの? だったら続編作ればまた売れるだろ」という感じにしか感じられない。
もっと言っちゃえば、「もうこれの続編を作るしか売れる道はないんですぅ~」としか思えない。
ちなみにこの『ドラゴンボール』は続編の制作の話が進んでいてもう脚本ができている。
それにはベジータや息子の悟飯が出てくるとか。
ところが今作がアメリカであまりに不評だったため、制作費が下りないとか何とか。
この映画はとんでもない作品だったわけだけど、不思議な点が一つだけある。
確かこの映画は鳥山明がある程度監修して作ったはずだけど、どうしてこうなってしまったのだろうか?
やはりハリウッド映画事情だろうか。
まぁあまり酷評ばかり言ってもしょうがないので、この映画の良いところを言わなければ。
この映画の良いところは原作『ドラゴンボール』の名前とその他の登場人物の名前との激しいミスマッチだ。
「悟空」という名前がトミーとかマイケルとかそういう類の名前の中にいるし、「チチ」もローザとかイザベルとかそういう類の名前の中にいるしね。
「ピッコロ」なんてまだ良いけど、「ブルマ」とかは完全にアメリカの名前から浮いている。
そういう細かい微妙なところに面白さの活路を見いだすしかない――そんな映画でした。
って、最後も結局酷評ですね。
先日――とは言っても今となってはもうとんでもないくらい前だけれど――『ドラゴンボール エボリューション』を観てきました。
平たく言えば、実写化された『ドラゴンボール』ですね。
僕はマンガ版の『ドラゴンボール』をかなり好きで、よく知り合いとドラゴンボール談義に花を咲かせているくらい好きだ。
ドラゴンボールは未だに色褪せない最高峰の作品である、と僕は思う。誇張表現かもしれないけれど。
そんなドラゴンボールを実写化するということでかなり期待していた。
ここで勘違いして欲しくないのは、期待と言うのは「ハリウッドがリメイクしたわけだからどの程度ひどいものができたのだろうか」という期待だ。
ベクトルで言えばマイナスベクトルの期待の仕方、と言えるかもしれない。
観た率直な感想。
「予想通りに、予想以上にひどかった作品だった」。
日本語としておかしな表現かもしれないけれど、つまりこういうことだ。
僕はこの作品を観る前から「多分ひどいんだろうな」と予想していて、また「これくらいひどいかな」というある程度のひどさも予想していた。
そして見始めてみると、最初の段階からして「これは予想以上にひどいかもしれないな」と予想していたら、その通りになった、とこういうわけだ。
ちょっと面倒な表現だったけれど、まぁとにかく「予想以上にひどかった」って言いたいのです。
ここからは僕がこの作品を観て思ったこと、考えたこと、感じたことなどを書くのですが、分量と書く内容の関係で今回の文章は前後編に分けて載せます。
【前編】ではネタバレ抜きの内容で、
【後編】ではネタバレを含んだ内容となっております。
僕は基本的にネタバレをするのは好きではないのですが、この映画に関してはネタバレを含めた部分にもあまりにツッコミどころが多かったのでネタバレをしています。
なのでネタバレをして欲しくない方は【後編】は見ないようにしてください。
原作の『ドラゴンボール』と言えばド派手な戦闘だけれど、実写化されると「ド派手」ではない。と言うかこれくらいの戦い方だったら最近だったら他の映画で充分やっている。
と言うか下手すりゃこの映画のアクションシーンよりもジャッキーチェンの方が派手なアクションしているかもしれないな。
つまりこの映画は「カンフー映画」なんだよね。
一応ドラゴンボールエッセンスは含まれているので、正確に言えば「カンフー映画~ドラゴンボール風」って感じだと思う。
僕は配役に関していちいち何かを言う人間ではないので配役に関しては言わない。でも一つだけ言いたいのは、僕は日本語吹き替え版を観たんだけど、悟空の声が山口勝平というのはいかがなものかと。
もちろん山口勝平を悪く言うわけではないんだけど、ちょっと気弱すぎるように映る。まぁこの映画の悟空自体がヘタレキャラなのでそういう意味合いで彼が選ばれたのかもしれないけれど。
この映画のキャラとは合っているとは思うけれど、マンガの悟空のキャラを思い浮かべると違和感を感じざるを得ない、ということだ。
おまけに悟空の一人称(自分の呼び方)が「オラ」じゃなくて「僕」というところからして違和感がかなりあるのだが……。
しかし話の進め方が面白くない。と言うか強引すぎる。
大まかなストーリーとしては単純に「ドラゴンボールを集めてピッコロを倒す」というだけなんだけど、話の進め方が強引で、尚かつ唐突すぎるんだよね。
○ドラゴンボールが見つかりました。
↓
○登場人物から(主に亀仙人)「次は○○へ行くのだ」もしくは「○○という老子(賢者)に会うのだ」と言われる。
↓
○そこで力を上げる修行をしたりドラゴンボールを見つけました。
↓
○登場人物から~
って流れだったと僕は思った。
もちろん1,2時間で収めるという事情はあるにはせよ唐突すぎるよな。
細かいところだけど、「かめはめ波」を含めた「気」の使用用途が斬新――というか「気でそんなことができるのか」とビックリした。
まず、悟空の「気」の修行の一環で「気」を使ってロウソクに火を灯す、とかね。
とてもじゃないけど原作の「気」を考えるとそんな使用用途は考えも及ばない。
これが例えば「『気』を使ってこの岩を砕け」と言われたら、『ドラゴンボール』っぽいなぁ、と思うこともできる。
ところが「ロウソクに火を灯せ」ってとんでもない「気」の使い方だ。
僕らが知ってる「気」って惑星を平気で滅ぼすものだからね。月とかナメック星とか。
まぁでも「そんな規模の戦闘が実写で為されたら映画にならない」と言われたのかもしれないけどさ、そういうところが『ドラゴンボール』の良さであると僕なんかは思うんだよなぁ。
【後編】へ続く。
僕の友人の幾人かはmixiをやっているんだけど、多くの方々は文章を書かない。
僕は人の文章を見ることが好きなので是非とも書いて欲しいと思っているんだ。
デジャビュ? えぇ、確かにそうですね。
「デジャビュが人間に何故起こるか」と言う命題に対してある一つの説の中に「デジャビュというのは前世の記憶が瞬間的に蘇ったものだ」というものがある。
と言うわけで。この出だしにデジャビュを感じた人はきっと前世でこの二行を読んだんだろうね。
あなた達の前世の頃からこういう文章を書いている僕は一体何ものなんだ、とツッコミを言われそうだけど、柔軟な考え方を持って考えると「今この文章を書いている僕はヤス2世だ」とか「これは完全なるヤスのクローンが書いているんだ」とか考えられるな。
なんてつまらない冗談はさておいて、冒頭の二行は「僕の周りの人よ、文章を書いておくれ」という内容の文章の出だしのコピペだ。
今回の文章はその内容の第二章にあたる文章です。
わぁお、随分長い前置きだ。
文章を書かない人達に「どうして文章を書かないんだよ」と聞くと(これでも僕の中では聞いています)、大方の人達は「書くことがない」とか「ネタがない」と言い返してくる。
僕もこういう文章を書いている身としては「ネタ」というものは重要なモノだということはわかっている。
わかっているけれど、僕は彼ら彼女らのそのような主張に対して決して同調しない。
そういうのは「『れんあい』の『れん』の漢字を忘れたから教えてよ」と言って「紙とペンがないから教えられない」と言うようなものだと僕は思っています。
紙とペンがないのなら最近だったら携帯の画面に打って見せてあげてもいいだろうし、紙とペンを借りてきてそれに書いてみせてあげてもいい。
もちろん口頭で教えてあげてもいい。
そういうのって「紙とペンがないから教えられない」わけだから他のやり方を考えて達成させる、という「行動」を起こしていると僕は考えている。
つまり「人間って行動すれば状況を打破することができる場合がある」というわけだ。
だからですね、ネタがないなら何かすればいいじゃないですか。
と言うと、「だったらお前は友達にシャイニングウィザードをかけろって言うのか」とか何とか反感がきそうだけど、別にネタを無理に作ることなんてないよ。
そりゃシャイニングウィザードをかけるところを動画なんかに撮れば僕は見たいけどね。
ようは考え方の話で、ネタなんてそこらへんに転がっていると僕は思う。
写真を撮ることが好きな人なんかにはよく分かってもらえると思うんだけど、写真の被写体ってそこらへんに転がっていると思いませんか?
例えば「アスファルトに一輪だけ咲いている花」とか「建物と背景のコントラスト」とか「UFOの残骸」とかそういうのってそこら辺に腐るほどある。
自分の見方次第で「単なる過ぎ去る風景」が「感性を刺激する芸術」に変えられる。
僕は文章もそうだと思っている。
ネタなんてそこら辺に無数に転がっていて、それこそ「今自分の隣を通って行った車のこと」でもいいわけだし、「散歩している犬のこと」でもいいわけだ。
もちろん「そこら辺に転がるUFOの残骸のこと」でもいい。
文章というのは考え方、着眼点次第で何でも好きなネタにすることが可能だ、と僕は頑なに思っている。
ちなみに上に挙げた例は僕が今適当に考えたことだけど、文章にできそうな感じがする。僕が何かの節に書きたいと思ったなら書こうかな、どうせ書いてくれなんて言われることないし。
そのように「行動」してネタを見つける。というか強引にでもネタにしてしまう。
だから僕の考え方としては「ネタとは作るものだ」ということになるわけで、彼ら彼女らの意見に対して同調することはあり得ないのです。
「ネタがないから作れないんだよ~」と言って仕事を放棄している寿司屋は必ずなくなってしまうよね。
でもたまたま入った寿司屋がそんな感じだったら何だか楽しい感じがしてしょうがない。
「ネタ、ないんですか?」
「いやー、ちょっとなー」
「マグロは?」
「いやー、ちょっとなー」
「サーモンは?」
「いやー、ちょっとなー」
「納豆は?」
「いやー、ちょっとなー」
「じゃあ海苔は?」
「いやー、ちょっとなー」
「何もないんですか?」
「うーん、ワサビとシャリならあるんだけどなー」
「そうなんですか」
「どうする?」
「じゃあ、『ワサビ』お願いします。さび抜きで」
「あいよ」
なんて会話が職人さんと話せたら僕のような人間は楽しくて楽しくてしょうがないと思う。
【第二章】~完~
僕の友人の幾人かはmixiをやっているんだけど、彼ら彼女らの多くの方々は文章を書かない。
僕は人の文章を見ることが好きなので是非とも書いて欲しいと思っているんだ。
人の文章を見るのは面白いですからね。
とは言ってもこの「面白い」というのは内容が面白い如何ではありません。
「お前が言うな」って言われるであろうことは間違いないだろうけれど、正直なことを言わせてもらえば内容が面白くない文章というものはこのネット上にかなりの数がある。
何がどう面白くないか、とかそういうことをあまり書くと「ヤスのくせに何様のつもりだ」と言われるだろうからこれ以上は書かないけどね。そもそも僕は誰かの何かを文章で批判する気なんてさらさらないんでね。
話の本筋とはまったく関係ないけれど、ちなみに僕は「何様のつもりだ」と聞かれた時、昔は「お子様だよ」と答えていました。
小学生とか中学生の頃だったかと思うのですが、僕にも若かった時期というのはあったのですね。遠い遠い遥か昔に――。
で、僕が人の文章の何を面白いと考えているか、って言うとそれは文章ににじみ出ている「個性」。
文章ってかなり個々人の性質――つまり「個性」――が含まれているものだ、と僕は思っている。
「思っている」というか実際そうだと頑ななまでに信じているんだ。
こうやって今僕が書いているこの文章にだって僕の個性はかなりにじみ出ていると思うし、他の方々の文章にも彼ら彼女らそれぞれの個性がちゃんと表れている。
その個性の差を見ると、「人間って色々いるんだなぁ」とか思うし、その延長上で「そうか、こういう考え方があるのか」なんて思うこともある。
そもそも何で文章に個性が表れているかと言うと、文章というものには書き手の考え方がかなり反映されるからだ。
人は考えたことを「言葉」という形で表現することができるけれど、その中でも目で見ることができる「文字」という形で表現すること――それが文章だと僕は思っている。
考え方なんて人それぞれ違うのは当たり前。
だからこそそんなものがもろに反映される文章がそれぞれ違うのは当たり前なんだ。
僕には僕の考え方がある。だから僕には僕だけの文章がある。
RさんにはRさんの考え方がある。だからRさんにはRさんだけの文章がある。
三丁目のマイケルには三丁目のマイケルの考え方がある。だから三丁目のマイケルには三丁目のマイケルだけの文章がある。
それぞれ持っているもの、考え方――「個性」は違う。
そしてそういう個性の差というものを僕は「差異」と呼んで重要視しているんだ。
僕は文章に表れる差異を見たい。感じたい。
一人として同じ個性なんてなく、つまり一つとして同じ文章なんてない。
そんな完全なる調律の上に成り立つ不完全さが面白い。
完全な不完全さを持っているんだ、人間って。
意味が分かりませんか?
つまり、「人間には一人として同じ人間なんていない」というシステムは完全に、完璧に成り立っていますよね。
でもそのシステムの中で「人と人のどこがどう違っているか」なんてまったく決まっていませんよね。
そういう観点で考えると、そのシステムはとても不完全なものだと考えられます。
僕は人間という生き物についてそう考えているので、「人間とは完全な不完全さを持っている生き物だ」と言うのです。
そしてそんな人間が創り出す文章もまたそのように考えています。
すごく抽象概念的なものを書いたけれど、こういうことを書いている僕の文章にも「個性」が表れていますよね?
もしもし僕の友人方、もっと僕に個性を――差異を――見せてくださいよ。
なんて言う僕の声はとても小さく、そしてとても頼りなげにフワフワと空中を漂い、すぐに虚空へと消え去っていってしまうんだ。
【第一章】~完~
ここのところ立て続けに映画を見たので、その映画のレビューをしたいと思います。
先日――とはいってももうかなり前――『バーンアフターリーディング』を観た。
映画の情報誌やCMを見てみると楽しそうに思えた。ブラピがiPodを聞きながらノっていたり、殴られて涙目になるヘタレっぷりがCMに出てたよね。あの映画です。
率直な観た感想。
前評判で物凄く良いことが書かれていて希望を持って観たけれど、「ガッカリ」とまでは言わないまでも「何だかなぁ」と思わざるを得なかった。
この作品の肝は、「複雑に絡み合う人間関係のリンク」だと僕は思いながら観ていた。
一人一人のストーリーが個別にあり、そしてそのストーリーが進むにつれて他の人とのストーリーと絡み合う、というのがこの映画の趣旨。
実際、「上手く絡んでいるな」という感じを受ける。
でも、「この人はどういうストーリーの流れで他の人のそれと絡み合っているのだろう」と上手く整理しないと分からない部分がある。
まぁこれはただ単に僕の理解度の低さと頭の悪さから来る問題かもしれないけどさ。
つまり、よくよく考えれば上手く絡み合っているけれど、話の展開が少し早いと感じてしまう部分がある、ということだな。
まぁ、2時間以内という制約がありつつ人間のドラマを描くのだから致し方ないと言えば致し方ないことではある。
でもラストの終わり方はあれで良かったのだろうか?
もちろんネタバレはしないから言わないんだけど、あれで良いのだろうか。
そういうのは僕の価値観と第三者のそれとの違いから生まれる類の話だろう。
とはいえ、「僕と他の人との感じ方の違い」という個人的な問題の違いか、はたまた「僕(日本人)と他の国の人との感じ方の違い」という文化的な問題の違いなのかはわからないけれど、何かしらのズレはあると感じている。
もちろんそのズレのようなものはラストの締めくくり方だけではなく、作品全体において言えることだ。
例えばこの映画のジャンルはコメディ映画なんだけど、申し訳ないとは思っているが、敢えて言わせてもらうと僕はこの映画がコメディ映画だとはあまり思わなかった。もっと端的に言えば「思えなかった」と言ってしまえるかもしれない。
もうその時点でズレが生じている。
映画然り、音楽然り、絵画然り……個人の感性や嗜好、価値観や価値基準などにより捉え方が千差万別な芸術という類のものにはこういうズレは付きものであるわけだ。
だから、「僕が抱いた思い」というのはある側面では正しく、ある側面では正しくはないわけで、同様に「第三者が抱いた思い」というのもある側面では正しく、ある側面では正しくはないことになる。
えーと、小難しいことを書いて何が言いたいかって言うとですね、まず一つは「ここに書いたのは僕が個人的に思ったことだから正しいか正しくないかは分からないよ」ということと「大方の場合、僕の抱くことは一般的な意見でないことが多いよ」ということを言いたいのです。
それをあぁだこうだと小難しく書きました。
このような行為と言うのは「1+1=2」という数式を「5+4-1+2-3-7+2=2」と考えるような行為ですよね。
申し訳ありません、シャイなのです。
こういうのはシャイとは違うか。
シャイかどうかはさて置いて、僕は彼女さんから「ツンデレだ」と言われるのですが、よくよく考えると「僕はツンデレかもしれない……」と思うようになりました。
そしてその延長上で考えるのですが、
「あなたツンデレですよね」と言われて
「いや、私はツンデレじゃないですよ~」と答える人が結構いるんじゃないかと勝手に思っているのですが、逆に
「あなたツンデレですよね」と言われて
「うん、僕はツンデレなんですよ~」と答えるというのはよくあることなのでしょうか?
また、そういう「自覚症状を持つツンデレ」というのは何かおかしなことがあるのでしょうか?
と書いていて気付いたのですが、重なってますね、「天然」と「ツンデレ」が。
過去:「僕はツンデレじゃありません」
↓
現在:「僕はツンデレかもしれないな」
↓
未来:Unknown...
こういう変化を成長と呼べるのかどうかは怪しいものです。
ノロケだ、と言われることを覚悟して言います。
きっと仲間内から「てめぇふざけるな」と言われたり、下手すりゃ村八分にされてしまうかもしれない。
「はいはい、よかったね」と白々しく言われるかもしれない。
「勝手にやってろ」と見放されるかもしれない。
ねたみを買うかもしれないし、性格が悪いと罵られるかもしれない。
陰口を言われるかもしれない。
友達が減るかもしれない。
それでも――それでも僕は言います。
断固として言います。
全てのリスクを背負おうとも、そしてその結果何かを失うことになろうとも、それでも僕は言います。
言いたいんだ、どうしても。
この心の底から際限なくあふれ出てくる喜びを声に出して言いたい。
「言葉」という形のない「形」として残したい。
僕という存在、僕の心の中にいる存在、その存在全てが今の僕にとっては喜ばしく、また嬉しいんだ。
だから僕は言うよ。
「今年は日焼け止めを買ったぜ!!」。
たまにはこういう文章も書きたくなったんですよ。
僕は思うわけです。
人間が創り出したパソコンというものは人間と同じような複雑さを内面に秘めている存在なのだ、と。
ちょっと前から僕のパソコンの調子が悪くて、ちょっと前からやっているオンラインゲームができなくなって、ちょっと前から困っていたんですよ。
動きはカクカクだし、音は飛ぶし、不景気だしでパソコンを使えたものじゃない。その状態でDVDを再生してみたら大変な再生のされ方をしたよ。「最悪なコマ送り」みたいな感じだよね、感じとしては。
それでずっとパソコン内のウィルスをスキャンしたりしてこの1週間は過ぎ去った。
結果としては治ったような気がするんだけど、それに至る過程は本当に大変なものだった。
運悪くセキュリティソフトの有効期限切れと重なったので、更新とウィルススキャンの順序を考えたり何だりしなければいけなかった。
あまり小難しいことを言うつもりはないので、どこでどう苦労し、どこでどう改善し、どこでどういう方法をとったか、なんて書くつもりはない。
ただ伝えたいのは「大変だったんだ」ということだけ。
毎日のようにウィルスのスキャンをやっていたんだけど、それをやっている間に僕は「パソコンも人間と同じようなものだよな」と思っていた。
例えば、ウィルスによってパソコン内のどこに弊害が出たかを調べればそのウィルスを特定することができる。そして、そのウィルスを駆除するための行動に移すことができる。
人間も同じでしょう?
喉がイガイガする(ちなみに僕は喉がイガイガするという感じがよく分からないんだけど)。咳が出る。頭が痛い。鼻水が出る……。
となれば風邪のウィルス、もしくは今話題のインフルエンザウィルスによる弊害だとわかり、病院に行けば薬が処方されるし、自宅だったら風邪薬でも飲むだろう。
そこに何の違いがあるだろう?
更に言えば、人間の病気って一般人にはどこが悪いのか分からないことが多い。
例えば「お腹が痛いなぁ」と思った時、どこの不調が原因でお腹が痛むのか分かるだろうか?
それが専門家だったら「腸のどこかの機能が落ちているかな」とか何とか分かるだろうけれど、一般人にはまったく分からない。ただ単に「お腹が痛い」としか分からない。
パソコンのウィルスによる不調だって、一般人からしたらただ単に「遅い」とか「重い」とかそういう「調子が悪い」としか思わない。
専門家だったら「こういう症状が出ているからこういうウィルスが考えられるな」なんて分かるけど、僕からしたらパッパラパーだ。
つまり、人間もパソコンもそのような「内側に秘める複雑さ」をかなり持っている存在ということになる。
複雑だとは分かるけれど、どれくらい複雑なのかは分からない。でも複雑なんだ、と一般人は思うしかない。
「人間が創り出したパソコンというものは人間と同じような複雑さを内面に秘めているのだ」。
とまぁそのように僕は思いながらこの1週間を過ごした。
もちろんこの言い方にはかなりの問題がある。
「人間と機械を一緒にするな」と言われると思う。
でもさ、だったらパソコンの不調を来す因子を「ウィルス」という名前にして欲しくないものだ。
だって「ウィルス」っていう単語は生物に使う用語だものね。
「パソコンを人間に当てはめたら『ウィルス』のようだからそう命名する」という感じで名付けられたんじゃないかと勝手に想像するんだけど、その時点で人間と機械を一緒にしてるよね。
まぁそんなことを思うんだけどそういうことを言うと「生意気だ」とか「屁理屈だ」とか言われるけれど、強ち間違っていないので何も言い返せません。
僕はよく人から「屁理屈だ」と言われるけれど、その決めつけ方自体がストレートすぎるよね。
せめてもう少し変化球を織り交ぜて欲しいと僕なんかは思う。例えばスライダーでもいいし、カーブでもいい。裏をかいてシュートでもいいし、驚きのナックルでもいい。ちょっとフォーク辺りだと判定は厳しいかな。
あぁ、いや、つまり、ストレートに「屁理屈」と言わずに「考え方が幅広いな」と言って欲しい気がするのです。
でも考えてみたら、僕の考え方それ自体がアンダースローのような変則的な考え方をしているわけだ。
そしてよくよく考えると三つ上の『せめてもう少し変化球を~』という考え方は間違えようのない「屁理屈」であると思います。何だよ、『驚きのナックル』って。
でも僕の理屈は「屁」の理屈じゃなくて、「ゲップ」の理屈のようなものだと自分では――こういう考え方好きですねぇ。
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