周囲の喧噪というオーケストラをBGMに僕は肉を焼いている。
肉を焼く合間に周りを見渡すと、家族だったりカップル、はたまた仲間達と話ながら、また笑い合いながら肉を焼いている。
その中で僕は一人だった。
誰かといつつ一人の世界に入り込んでいる、というならまたニュアンスは違うだろうが、僕は正真正銘一人だった。
トングを持ち、牛や豚や鶏の肉を網の上に並べる。
並べるとしばらくやることがなくなってご飯やサラダを食べる。
しばらくすると肉の色が変わってくる。
僕はまたトングを持ち、肉を裏返す。
その間にも肉は、それ特有の音を奏でながら火で焼かれ続ける。
少し周りに気を配れば、どこのテーブルでも肉は音楽を奏でているように聞こえる。
「ジュー」という言葉に表せばただ一言の擬音だが、その音は僕たちのような焼き肉好きのものたちの耳を刺激し、魅了し、そして大きなウェイトを占める人間の一つの欲望を抱かせる。
だから考えようによっては焼き肉屋とはオーケストラと言えるかもしれない。
肉の面々の声はみんな違う。
まるで我々人間のように十人十色な個性を持っているかのようにも思えてくる。
僕ら人間には一人として同じ人間はいない。肉だって同じ肉はいないと僕は思う。
人間も、動物も、僕も、誰でもみなそれぞれがそれぞれ違う過去を持ち、運命を担い、尚かつ運命を背負っている。
世界とはそういうものだ。人間も牛も豚も鶏も何も変わらない。僕らは共生しているんだ。そして僕らは運命というものを与えられているのだ。
僕はそんなことをボンヤリと考えながらまたトングを持ち肉を裏返した。
肉はもう充分焼かれ、もう少しで黒くなるぞ、というメッセージを僕に示していた。
「そういえば、あの人も肉を焼いたらよく焦がしていたな」僕はそう呟いた。
僕は肉が送るメッセージを真っ正面から受け入れて、肉を網の上からタレが注がれている小皿へと移した。
もう少しで頼んだ皿が空になりそうな時に僕はトイレに行った。
貴重品だけを持って僕はトイレに向かったけれど、不運にもその店にはトイレが一つしかなく、さらに不運にも誰かに使われていた。
僕は引き返そうとした。
するとノブの少し下の部分がガチャガチャと音を立てたので、顔だけ振り返って見るとノブの上にあるマークが赤色から青色となった。
どうやら先客の人が出てくるようだから僕は戻ろうとしていた身体を転回させ、尚かつ通路の左側に寄った。
ノブが回され出てきた人は女の人だった。背は低く、年は20代中盤くらいだろうが、後ろで一つに束ねている髪が彼女を少し幼く映した。
僕はこんなところに立って待っているんじゃなかった、と後悔した。彼女からすれば僕のような男がいくら壁に寄っているとは言っても迷惑だろうと想像することは容易かったからだ。
通路はあまり広くはなかったので、僕はでかい身体を必死に壁に寄せ「すいません」と言った。もうこうなってしまってはその場にいることが一番の良策だった。
彼女も方も「あ、すいません」と小さな身体を更に小さくして僕の側を通ろうとしていた。
そして完全にすれ違った。
その時僕は何かを感じた。
彼女の方を見ると、彼女は僕のことをじっと見ていて目があった。
僕は疑問に思ったけれど、きっと彼女は僕のことを無神経な男だ、と思っているのだと思ったから視線を元に戻しトイレのドアノブを回してトイレの中に入った。
そして僕はトイレの中で先ほどの後悔の念を更に強めた。
席に戻り荷物をチェックすると無事だった。とは言っても上着の他に大した持ち物は持っていないのだから盗まれたととしても大した損害ではないのだけど。
僕はまた肉が奏でるオーケストラの世界の中に身を浸した。
すると、誰かが僕の座っているテーブルと隣のテーブルとの間に立った。
初め僕は隣の席に用がある人だろうと思っていたけれど、隣のテーブルを使っている人は何事もなく話をしているので僕は疑問に思ってその立っている人を見ると、先ほどトイレの前ですれ違った彼女だった。
僕はビックリしたけれど、彼女は「すいませんが、あなたはお一人ですか?」と尋ねてきた。
「そうですが、何か?」僕は箸を小皿の上に載せ、彼女の話を聞こうとした。
「いえ、もしあなたがよろしければ相席してもよろしいでしょうか?」
「まぁ僕は一人ですから構わないと言えば構わないのですが、何か僕に用でもあるのですか?」
「そうではないんです」彼女は緊張した顔を浮かべはっきりとこう言った。「私も一人なんですが、あなたとお話がしたいな、と思いまして」
僕は自体がうまく飲み込めなかった。でもどんなに時間が経とうともうまく飲み込むことなんてできないだろうから、いいですよ、と一言言った。
すると彼女はホッとしたような笑顔を僕に向け、そして自分の席に戻っていった。
僕は先ほどトイレのドアの前で僕に向けていた彼女の瞳を思い出した。
今思えば、あの瞳を僕は知っていた。
何度も何度も僕が見ていた瞳だった。
それは相手に惹かれていることを語る瞳だった。
彼女が僕と相席する、そのことが僕に与えられた運命なのだろうか。
もしもそれが運命だとしたらその運命の先には一体何があるのだろうか。
もう僕は運命を辿りたくなかった。
もう僕は運命を受け入れたくなかった。
もう僕は運命に縛られたくないんだよ。
もう僕は運命に翻弄されたくないんだよ。
でも抗えなかった。
抗い方を僕は知らなかった。
そして彼女は僕のテーブルに荷物と自分の伝票を持ってきた。
この焼き肉屋は2年前に僕があの人にプロポーズした場所だった。
今考えればもっとまともな場所でプロポーズすればよかったと思うが、今ではどこでプロポーズしても何も変わらなかったかもしれないな、と思っている。
どこで、とか。
どうやって、とか。
そういうことがどう変わったとしても変わらないものはきっと何も変わらなかっただろう。
今日は僕があの人にプロポーズした日から2年の月日が流れた日だった。
そして同時にあの人が逝ってしまった日からちょうど1年の日でもあった。
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