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自由気ままでアホ丸出しのエッセイと稚拙な創作物(小説)を載せています。  時間の許す限りお付き合いください。
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お久しぶりです。僕のこと覚えていますか?

と言うのも、ここの原稿を書くのが実に一月ぶりくらいなのです。

以前は、原稿をちょくちょく書くだけの時間と気持ちがあったのだけれども、最近の僕は怠けているのかどうかは知らないけれど、原稿をほとんど書いてない。一応書こうという気持ちだけはあるのだけど、何故か知らないけれど書けないんだよね。

僕も長いことこういう文章を書いてきているから、スランプとかに陥ったことがちょくちょくあった。他の人がどうかは知らないけれど、僕はたびたびスランプに陥ってしまう。書こうと思ってパソコンをつけるのだけど、何も書けなくなってしまうのだ。

僕にとって、文章を書くと言うことは唯一の自己表現方法なので、文章を書くことでしか自己を表現できない。同時に、文章を書くことによってのみ満たされるものもある。これは、音楽を奏でることで、絵画を描くことで、写真を撮ることで、満たされる何かがあると言うものと同じことだ。

だから、確かに文章が書けないのは辛いことだ。自己を表現する力を持たなくなった人間は、人間味がない……とまでは言わないけれど、やっぱりこの世の中で自分というのは一人しかいないわけだから、この世に一人しかいない自分を表現したいじゃないか。

スランプに陥っても、どうしてこうなってしまったんだ、なんて思わない。

僕は悲観的に捉えるのが得意じゃないので、そんなことは思わない。

文章が書ける日もあれば、書けない日もある。僕はそういう心持ちで文章を書いている。

精神状況にだって、調子の良い時もあれば、悪いときもある。

天気にだって、調子が良くて晴れ渡っている時もあれば、調子が悪くて雨が降ることもある。または雷を鳴らす時だってある。

そこら辺で言われている月並みな言い方だけど、『やまない雨はない』、『明けぬ夜はない』と言ったところだろうか。

それと同じことで、僕は人間なんだから書ける日もあれば書けない日もあるわけで、そんな調子の善し悪しを誰が批判できるだろう? 悲観的に捉える必要はあるだろうか?

別に僕の楽観的捉え方が正しいことだ、善なるものだ、と言っているわけではない。

でもさ、調子が良いから自分を褒め称える。悪いから自分は駄目なんだと思う。というのはそんなのってないよな、と僕は思う。調子が良い時もあれば、悪い時もあるんだからさ、それが自然の摂理なんだよ。天が天地を創造した時に作った覆されることのない、崩れ去ることのないこの世の在り方なんだ。

それは、生物は生まれたら必ず死ぬ、と言うことと同じこの世の在り方だ。

調子が良い時もあれば悪い時もあり、それらはどちらかが永続することはあり得ない。そういうものなんだ、と思えれば少しは人生が楽になるんじゃないだろうか、なんて僕は思ってスランプになっても気楽に構えている。そのうち書けるようになるさ、なんてね。

この世に永久機関は存在しない、と言ったのは誰だったか忘れたけれど、永久に動くものはないから今のうちににやっておこう。そう思うことが人間が生きている意味なんじゃないのかなぁ、なんて思うんだけど。

 

そんなわけで、一月ぶりに原稿を書いてみれば、今日の僕の調子は、書ける日でもあり、書けない日でもある、と言う中間に位置している。何とか苦労すれば書ける、と言う具合である。

今度からは定期的に書こうかと思うんだけど、なにぶんにも時間がない。

あらゆる文章を書く場で書いていることだけど、人が大人になると定義づけられるファクターというのは、成人したから……ではなく、恋人と一線を越えたから……でもなく、体つきが大人になったから……でもなく、僕は、時間という目に見えない、感覚でしか感じられないものの移ろいを早いと感じたから、だと思っている。

子供の頃は時間はもっと無限にあった。

遊んだなぁ、と思っても時間はまだ残っていた。

しかし、大人になると、「さて遊ぶか」と思って遊ぶ用意をしていたら一日は終わってしまう。圧倒的時間の早さ。

僕ももうすっかり大人になって、時間の進みが本当に早いので、文章を書く時間がない。今まで僕が趣味に充てていた時間はどこへ行ってしまったのだろう? 探しても、探しても、見つからない。

それでも、ちょくちょく書こうと言う心意気がないと僕の時間は本当に消え失せてしまうので、こうやって文章に表して戒めることが大事なんだ。

僕の文章を楽しみにしているような人なんていないと思っているけれど、僕はそれでも書き続けると思う。

僕はこういう文章を誰かのために書こうなんて思ってない。これは純然たる趣味だ。

僕は僕の思っていることを書く。それがたとえ、誰かに読まれようとも、読まれまいとも。だけどもしも、僕の文章が誰かの目にとまり、面白いと思ってくれたならそれはありがたいことだ。しかし、実際にそうなることはほとんどない。

『自己満足』----と言う言葉が浮かんだけれど、どうなんだろう? 僕のこの考え方が自己満足と言う言葉でしか表せないのならば、もしかしたらこれは自己満足かもしれない。でも、そうではないんじゃないかなぁ、と思う。

上述したとおり、僕にとって文章を書くこととは、自己を表現するための唯一の行為だ。だから、僕は別に自分が満足するために書いているわけではなく、自分の考えや思いを文章にすることによって具現化させているだけなんだ。

僕は不器用な人間なもので、文章にしないと気付かないことがたくさんある。そういう思いなり考えなりを知るために僕は文章を書いているとも言える。

つまり、僕にとって文章を書くこととは、僕を成立させていくために欠くべからざる行為なのだ。その行為の一つで、僕はこうして文章を世に送り出している。実際のところ、僕は世に送り出さない文章だって書いている。さっきも書いたけれど、それは僕が僕の考えや思いに気付くためだ。

だから、僕のこの一連の行動が単なる『自己満足』によるものだとは思えない。『生きるために必要なもの』とでも言えば適当だろうか。


色々と書いてきたけれど、そんな僕はこれからも文章を書き続けていく、と言うことだ。

久しぶりに文章を書くにあたって僕の原点に立ち返る必要があったからこの文章を書いた。

原点回帰----。

 

 

最近このブログを検索エンジンで検索してくる人が多いんだけど、その検索ワードのリストを作ってみた。

したらば、それが結構面白い。あらゆる偶然と必然が折り重なり合いこのブログに辿り着いたのだろうが、その折り重なり合いっぷりがどうにも面白い。

今回は特にネタもなく書いてきたので、ここにリストを載せようと思う。

最初の数字が『順位』。次が『検索エンジン』。次が『検索ワード』。最後が『検索数』。

 

1 [Google] とんこつ焼きそば       11
2 [Google] mixi 自己紹介 書き方      4
3 [Google] mixi 日記を読むだけで     3
4 [Yahoo!] 安っぽい                   3
5 [Google] 安っぽい                   2
6 [Google] 持ち得る力、全てを使って   1
7 [Google] 体は女                     1
8 [Yahoo!] 脇毛の生える時期           1
9 [Google] 原田宗典 笑えない          1
10 [Google] たこ焼き 長芋             1
11 [Yahoo!] とんこつ焼きそば          1
12 [Google] 原田宗典 書き方 小説      1
13 [Google] 成長しない 本を読まない   1
14 [Yahoo!] 安っぽいとは              1
15 [Yahoo!] 生え際 生やす             1
16 [@nifty] 変人達のへんなこらぼ      1
17 [Yahoo!] mixiの日記の書き方        1
18 [Google] 髭を生やしたい            1
19 [Google] 安っぽい世界              1
20 [Google] 安っぽいバレンタイン      1
21 [Google] タンデムスタイル          1
22 [Yahoo!] 少年 脇毛が生えない       1
23 [Google] 格好良い髭                1
24 [Google] カルマ 咳 喉              1 
25 [Google] 日記とエッセイの違        1


これを見てもらえれば分かるとおり、ここ1ヶ月半の間に『とんこつ焼きそば』で検索してくる人が12人もいる。こんなに検索されると言うことはテレビかなんかで紹介でもされたのだろうか? 確かにあんなに美味しい焼きそばだったら紹介されてもおかしくないよな。真偽のほどは僕はテレビをまったく見ないので知らないんだけど。

次いで、『mixi 自己紹介 書き方』。

これを見る限りでは、mixiの自己紹介の書き方に苦労している人が結構いるんだな、なんて分かる。

確かにあれは難しいですよね。でも僕の文章なんて読んでも何のタメにもならないだろうなぁ。何だか申し訳ない気持ちになってきた。

あと、傾向的に多いのは『毛』に関することだろうか。

やっぱり『毛』に関する悩みと言うのは、質の差はあれど全世代共通なのだろう。僕もまだ若かった時にかなり悩んだ。幸か不幸か今では悩まないけれど。

これからもこのブログを検索して僕を笑わしてください。笑ったら失礼なのかな? まぁ、これで笑えるのは自分のサイトを持っている人の特権だよな。

 

さて、最後になったけれど、現在新しいテーマの原稿を鋭意制作中です。"テーマ"と言うよりも端的に言って"新しいカテゴリ"の原稿ですかね。

楽しみにする必要は全くないけれど、そのうち登場します。現時点ではその新しい種類の原稿が1本書き上がっているんだけど、もうちょっと書き上げてから公開しようと思っています。プロットは具体的に浮かんでいるから書ける日ならばすぐに書けると言う進捗状況です。

カミングスーン!

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自分のことを、特別礼儀正しい人間だ、と思っているわけじゃないが、少なくとも、同年代の中で相対的に見ると自分は礼儀正しい人間だ、と思う。

礼儀正しい、と言う言葉が適当か不適当かはよく分かっていない。それはただ単に、他人行儀だ、とも言えるかもしれない。それはただ単に、人見知りが激しいだけだ、とも言えるかもしれない。そこのところの正確な書き方を僕は知らない。でも、"礼儀正しい"と言う言葉が一番的を射ていることだと思うから、ここではその言葉を使うとする。

 

僕と最高級に話が合う友人にI田さんという男がいる。僕の原稿の中によく出てくる、お馴染みの男である。

その彼とこの間、二人で出かけた時、車の中で色々と話をした。

僕と彼とでは、持っている素質、考え方、人間性、性格、それらを含めたほぼ全てがまったく異なっている。似ているところ、と言えば、もしかしたら、"男である"ということだけかもしれない。それ以外はほとんど似ているところがない。

しかし、似ていなくても人間と人間は気が合う。それはまるで磁石のプラスとマイナスが如く、寄り添い合うことが出来る。

僕と彼は似ていない。似ていないからこそ一緒にいられるんじゃないか、なんて思う。

人間同士が付き合っていくには、10あるうちの9が違っても、最後の大事な1個が結びついてさえいれば、いつまでも良好な関係でいられる、と言うのはとある作家が言っていたことだけど、僕とI田さんとのことで考えれば、きっとそうなんだろうな、とも思う。

そんなI田さんと、そのとき、車の中でこう話した。

「最近さぁ、レストランで頼むときに、やけに偉そうに、そしてそれがさも当たり前のことのように、頼む客がいるじゃない」

「いるねぇ」

「そういうヤツを見ていると、ムカついてくるね」

「お客は神様だって言うけど、それでも、上から見ることじゃないよな」

どちらから言い出したのかは覚えてない。もしかしたら僕から言い出したのかもしれないし、もしかしたらI田さんが言い出したことかもしれない。でも、僕はこの会話をしたことをよく覚えている。それは僕自身こういうものの見方で生きていたからだ。

自分のことを、特別礼儀正しい人間だ、と思っているわけじゃないが、そういう無礼な人って多くいると僕は常々思っている。

"無礼な人"と言うよりも、正確に書くならば、"他人の気持ちが分からない人"だろうか。まぁ、どっちにしても大差はないんだけど。

例えば、よく思うのは、朝の満員の電車の中とか。

満員電車で少しでも人が乗れるようにするには、ドア付近に溜まらずに奥まで入ることが重要だ。しかし、見ていると、奥まで入らずにドア付近で立ち止まっているヤツが多いのをよく見る。

そして、愚かなことに、ドア付近はぎゅうぎゅう詰めの押しくら饅頭状態になっている。ちょっと奥まで行けば、その状態が少しでも改善されるし、その分人が多く入れるのに。

そういう光景を毎朝見ている。

僕がI田さんにそう言うと、I田さんもそう思う、と言っていた。

I田さんを見ていると、そりゃ幾らかは無礼なところもあるけれど、それでも、他の人と相対的に見ると、随分水準が高いところにいるな、と思う。

人間なんだから、無礼なところがあるのは致し方ない。それを言ったら僕だって知らず知らずのうちに無礼な行いをしているかもしれないわけだ。そしてもしかしたら、僕のことを無礼な輩で付き合いたくもないわ、と思っている人がいるかもしれない。それは充分あり得ることだ。

でもI田さんは他人に対して本当に礼儀が正しい。

あまり、細かいところを書くとI田さんに何となく失礼な感じがするので、一つだけ書くことにする。

I田さんは店に行って、店員が対応してくれている時にはっきりとしたイントネーションの敬語で話す。そこには、自分は客だから上だ、みたいな感じはなく、かと言って、店員よりも下だと思い、卑下しているような感じでもなく、店員と自分(客)とでは対等な一人間として接しているような感じがする。

携帯ショップの店員にも(この間一緒に行った)、ファミレスの店員にも、礼儀正しく接している。

どうやら彼は、他人には敬語で話すように行動様式が刻み込まれているらしい。

しかし、それは僕にも言えることだ。

僕も、まだ仲が良くなっていない相手に対して、「あぁ、敬語を使いたいな」と思う。仲が良くなっても敬語、と言うのは何だか堅苦しいけれど、知り合って間もなくとか、まだそういう間柄になっていない相手、とか、初対面の相手には敬語を使っているし、また敬語を使いたい、と思ってしまう。

そんなのだから、無論、知りもしないファミレスの店員とかには敬語で話す。別に自分は下だ、と卑下しているわけではないが、僕にとっては敬語で話すことが一番自然な形なのだ。

もしかしたらそれはI田さんにも言えることなのかもしれないけれど、真偽のほどは確かではない。

正直なところ、「敬語使いたい病」が僕の中で静かに、それでいて確実に生まれる。それは僕の意識とは無関係に生まれてしまう。

それはまるで、胎児のように。

それはまるで、炎のように。

それはまるで、嵐のように。

生まれ、育ち、暴れ、そして産まれる。僕にとっての「敬語使いたい病」はそのようなことだ。生まれるのを抑制することは出来ない。いいや、それだけじゃない。育つことも、暴れることも、そして産まれることも、それら全て抑制することなんて出来ない。僕がどうこうできるものではない。

僕に出来るのは、翻弄されることだけだ。

しかし、抑制せずにそのままそれを使ってしまえば良いのか……と言うとそうでもない。例えば、仲が良い人にいきなり敬語で話しても「ん? 気でも狂ったかな?」と思われるだろうし、何だかそれは不自然でしかない。「いきなり他人行儀になって、何か俺言ったかな…」なんて思われたら、僕としては申し訳ない気持ちで一杯になってしまう。

だから、知り合いと会っている時は抑制を。初対面の人には解放を。それが僕が取るべき行動だ。

知り合い相手であっても「敬語を話したいな」と思うことは一体、どういうことなのか。それは分からない。多分僕の中で、敬語を話すことに関して抑圧された何かがあり、その抑圧された反動で思い切って話してしまいたいと強く、強く思ってしまうのではないか、なんて考えている。

と言うか、僕の交友関係を客観的に見てみると、最大級に仲が良い相手、もしくは、ほとんど顔見知り程度の相手、その二つの関係しか無いのだ。

何回も書いているとおり、僕は極端に"狭く深く"付き合う人なので、仲が良くなった人とは本当に仲が良いし、そうじゃない人とは極端にそうじゃない。

最大級に仲が良い人とは敬語を使う意味がない。そして、顔見知りには敬語を使う意味がある、と僕は考えているわけで、つまり、僕の中では数少ない友達以外にはほとんど敬語を使っている、と言うことだ。

人数で表すと……そうだなぁ、敬語で話さない人は10人に満たないかな、うん。これでも昔に較べたら遙かに人数が増えたんだよ。それ以外の人とは敬語のオンパレード。

賢明な方なら分かるとおり、僕は対人スキルが著しく低い。だから、町中でいきなり話しかけられると、何を話せばいいのか分からなくなるし、そういうある種の緊張感を持つと、僕の言語は敬語になってしまう。

別に相手を上に見ているとか、自分を下に見ているとか、そういうのとは一切関係なく、いきなり話しかけられると敬語になってしまう。

それでも、敬語を使わないで問題になる、と言うのはよくあることだけど、敬語を使っていて問題になる、と言うことはほとんど無いので、どうでもいい、と僕は思っている。最近の世の中は何が起こるか分からないじゃないですか。肩がぶつかったぶつかってないで殺人事件が起こるような世の中ですよ。触らぬ神に祟りなし。敬語を使えば祟りなし、と言う言葉はないけれど、まぁ、ニュアンスで察してください。

この書き方だと誤解をされるなぁ。

僕は何も、自分自身の保守のために敬語を使っているわけではない。ただ、僕の言語の中枢に位置しているのは"敬語"と言う言語体系(果たしてそう呼べるのかは謎だけど)である、と言うだけであり、だからこそ、いきなり話しかけられると咄嗟に敬語が出てきてしまう、ということだ。

そして、それに加えて、僕は普通に友達と話していると、「敬語を使いたいな」と強く思ってしまうことがよくある、と言うだけの話をこんな長い文章にしたのが今回の原稿のコンセプトである。

一つの言いたいことを、遠回りして書く、と言うのが僕の書き方の根幹に存在している書き方であり、そうやって書いているからこそ、短い文章を書くのが苦手なのだろう。

でも、僕はこの書き方で損しているとは思ってない。例えば、「これこれについてのレポートを書け」なんて言われると僕のこの能力は遺憾なく発揮される。一つのテーマを遠回りして(僕の中では"掘り下げて"、と捉えているのだけど…)書いていけば、自然と規定の分量以上にはなる。

それが僕の書き方の特徴なのだ。ここでは面白いか面白くないかは一切触れない。それを言ってしまうと僕の文章はただ長いだけの面白くない文章になってしまうので、触れてはならぬ。皆様も、僕の文章が面白いか面白くないかについて触れてはいけません。

まぁでも、昔書いたとおり、僕の文章を面白くない、と思ったならば、即刻このページを閉じるべきです。強制的に読ませているわけじゃないし、何を読んで、何を読まないかなんて人に指図されることじゃない。自由意志で読むからこそ、文章なり絵画なりは面白いのだ。

と、言うわけで、面白くなかったら読まなくて良いです。

なんて書いているから、読者もこなくなるのであることは重々承知だけど、読者がこなくなるくらいで趣味をやめていたのでは、それは趣味とは言えないわけだ、と思っているのです、僕は。別に生活賭けてやっているわけじゃないし、読者のためにやっているわけでもない。これは純然たる趣味でやっているだけなのだ。


それとは関係ないけど、僕は文章では敬語を使わない。

何でだろうね? 僕にも分からない。誰か分かりますか?

いきなり何言っているんだ、こいつは、と思われるかもしれないが、どうやら僕は童顔らしい。おまけに背が凄く小さいので、余計に子供だと思われているらしい。別に僕は僕の体のことが気に入っているのでどう思われようと別に構わないと言えば構わないけれど、子供に見られているのは何だか気になる。

僕は近所のデパートの中にある鉄板焼きの店の焼きそばが大好きなので月に1回くらいの割合で食べに行っている。

余談だけど、そこの焼きそば----特にとんこつ焼きそばは至極の美味しさだ。僕が今まで食べてきた焼きそばの中で一番美味しい。僕は飽きもせずに毎回とんこつ焼きそばの大盛りを頼んでいる。それだけ美味しいのだ。

そこに食べに行くんだけど、店員さんの僕に対する反応が何というか、子供に対する対応の仕方のような気がしてならない。

「何にする?」

「えーと、じゃあとんこつ焼きそばの大盛りで」

「ありがとう」

普通、そこは「ありがとうございます」じゃないのだろうか。

さらに、

「お冷やいる?」

「あ、貰います」

という会話からもなんだか子供扱いされているような気がしてしょうがない。

さらにさらに、

「会計は525円ね」

「じゃあ、これで」

「はい、丁度お預かりします」

「ごちそうさまでした」

「ありがとう、またきてね」

文章にすると分かりにくいけれど、何というかイントネーションからして僕を子供扱いしている感が拭い去れない。

多分、彼女たちの中では僕は高校生くらいに思われているのではないだろうか。もしくは中学3年生くらいか?(それは言い過ぎ) 多分それくらいにしか思われてないと思う。

僕はこう見えて一端の大人の男である。だけど、どうやら小さすぎる背と童顔のおかげで高校生くらいに思われているらしい。これは得と見るべきか損と見るべきか。賛否両論だろうけど、どちらでしょうね。

少なくとも僕はこれで損したとは思ってない。僕は別に自分の体を変えようとは思ってないし、(シェイプアップはするけどさ)このままの体で構わないと思っているから、特に僕は損したとは思ってない。でも、僕の低すぎる身長で、老けている顔に見られるのはなんだかおかしいとは思う。だから、僕の身長に童顔というのはよく合っている、と僕は考える。僕の身長と顔の作りは合っているのだ。

 

自分では自分の顔はこういうものなのだ、と思っているから、自分の顔が童顔だなんて思ったことはない。どうして僕の顔が童顔なのか分かっているのかと言うと、知り合い数人に「ヤスは童顔だよな」と言われたからだ。知り合いの話を鵜呑みにするわけではないけれど、ここまで子供扱いされると「僕は本当に童顔なのかもしれないぞ」と思うようになった。

考えてみれば、身長が低い人というのは総じて年若く見られると言う。ということは身長のお陰で顔が若く見えるということもあり得る。でも、顔が若いから身長が低く見られる、というのは当然のことながらあり得ません。僕の身長は見間違う事なく、かなり低いです。女の子よりも低いからね。

身長のお陰で顔が若く見えるのか、それとも顔が童顔だから若く見られているのか、はたまたそのどちらも、か。僕には分からないのだけど、そのことに関しては別に分かって無くてもいいよ、と思う。正直知っていても得することはない。

でも、身長が低いから若く見られる----という概念にとらわれない人もいる。例えば、ボビーという知り合いがいるのだけど、彼なんかは背は低いけど決して若く見えない。小さな声で言えば、そこらへんにいる単なるおっさんの一人だ。彼の背は僕より少しだけ高いくらいだから、決して高いというわけではない。だけど、彼はおっさんだ。

もし僕と彼が並んでいたとしたら、どう思われるのだろう? 理論的にはちょっと若めのお父さんと高校生の息子と言ったところか? いや、それはないか。同い年なんだけどね。

僕は幼く見られて、彼は老けてみられる。僕は別に幼く見られようが老けてみられようがどうでもいいんだけど、彼がどう思っているのかは知らない。だからわざわざ並んで立とうとはしない。場合によってはそういうのは失礼に値するから----というより、僕は個人的にあまりボビーと二人でいたくないので並んで立つということはあり得ない。したくないもん、正直言って。


僕はシェイプアップが好きなので、ジムに通っているのだけど、そこでも若く見られるらしい。下手したら、中学3年~高校2年くらいの人の中に混じってもあまり違和感無いくらいにしか見られてない。まぁでも、あんな身体した中学3年がいたらビックリだけど、それくらいに見られるらしい。

でも、そういうのって僕がどうこうできる問題ではない。僕は自分の力でどうこう出来ないことに関して考えるのは時間の無駄だ、と思っている人なので、そう言うことに関しては考えない。だからこそ、童顔に見られても別にいいし、高校1年生に見られても構わない。そういう見た目のことに関してはほとんど考えない。どうこう出来ないものの話だからね。

僕は自分の背格好で充分満足しているので、別に変えようとも思ってない。変えられないことは分かっているし、ちっちゃいと言われようが童顔と言われようが、別に構わない。どうとでも取ってくれて結構だ。第一そういう身体のことでバカにするという人は人間として最下層の人種だと僕は思っている。僕は勿論クズとして名を馳せているけれど、身体のことでバカにするヤツは僕よりもさらにクズ、本当に最下層の中でもさらに最下層なクズだ。

身体のことをコンプレックスに感じている人はごまんといる。そういう気にしてる人達に身体のことを言うのはあまりに馬鹿げている。人間としてクズのさらにクズとしか思えない。

僕は自分がちっちゃい背だということは自認しているから言われても気にしない。年が若く見られても気にしない。

でもそうじゃない人もいる。

そういう人のことも考えて、接することが人間社会ってものだと僕は思っている。

もしかしたら僕も知らず知らずのうちに、触れてはいけない部分に触れてしまっているかもしれない。偉そうなことを言える立場じゃないかもしれない。でもね、故意に相手の気にしていることを言うのはフェアじゃない。そういう人達のことを、僕はクズのクズと言っているのだ。

出来れば、そういう無神経な人にはなりたくないものです。


編集後記:

この文章を書いた後に何回も例の鉄板焼屋に行ったんだけど、僕の顔はすっかり覚えられていて、僕はその店の常連さんになっていた。行けば、「いつもありがとうね」なんて言われるくらいの関係である。まぁ、それだけ行っている僕も僕だけど……。

それで。特に僕のことを子供扱いする人と僕はほとんど顔見知りで色々と話をすることもある。

「今春休みなの?」とか「勉強大変だよね」とか「将来どうするの?」なんてことを話しかけられた。僕は対人スキルが著しく低く、話をするのが得意ではないので、そういうことがあると食べ物の味が分からないくらいに緊張することになる。せっかくの美味しいとんこつ焼きそば(大盛り)の味が分からなくなるのは凄く悲しいことだ。

子供扱いするのは大いに構わないけれど、なるべく喰っている人には話しかけないで欲しいものである。

幸せ、と言うものが何なのか、またどんなものなのか、と言うのは人間に於ける平等の悩みのようなものだ。

しかし、幸せを形に表すことは出来ないけれど、人には、「これがあれば幸せ」と言う形を為すものが幸せへと連想させることが出来る。

例えば、たこ焼きなんて幸せの坩堝ですね。

あの匂い。あの歯ごたえ。あの丸み。あの香ばしさ。あの美味しさ。

たこ焼きに於ける五感に訴える全てのものは幸せに直結している。

僕の家の近くに、中規模のショッピングセンターがあって、そこにはたこ焼き屋がある。僕はそこのたこ焼き屋に2,3ヶ月に1回くらいの割合で行って、たこ焼きを食べている。

最近気が付いたことは、たこ焼きとマヨネーズの相性が抜群に良いことだ。今まで僕は、マヨネーズを毛嫌いしていたのだけど、そのことに気が付いて以来、マヨネーズが好きになってきた。

幸せの象徴であるたこ焼きを愛しているがために、好き嫌いが一つ減った。なんて幸せなことだろう。

そのショッピングセンターにはたこ焼きの用事以外でも結構な頻度で行くんだけど、たこ焼きの匂いが漂ってくると、僕はいても立ってもいられなくなる。

僕の鼻にあるたこ焼き感知センサーがピピピッと働き、「12時ノ方向ニタコ焼キ屋アリ」なんて指令が出されて、一目見ようと……もとい、一鼻嗅ごうとそのたこ焼き屋に行く。僕は、あまりお金を持っていないし、物凄い小食なので、たこ焼きを買う、までは行かないのだけど、一鼻嗅ごうとどうしてもたこ焼き屋に行ってしまう。

そして、たこ焼きが焼かれているのを見て、「うむ、今日もたこ焼きだ」などと意味不明なことを思って、泣く泣く帰ってくるのである。本当は食べたいのだけど……。

そのショッピングセンターではたこ焼きを売っているので、色々な人がたこ焼きを買っている。

ある日、僕のたこ焼き感知センサーがピピピッと働き「2時ノ方向ニタコ焼キ反応アリ」と言う指令を出して、向かってみると、若い女の人がたこ焼き屋のビニールを手に持っていた。

僕はたこ焼き好きである前に、人間なので、若い女の人に近づいて「ヤダわ、この人、ストーカーかしら」なんて思われると困る。

そうじゃないのだ。僕はただ、あなたの持っているたこ焼きの匂いがあまりに美味しそうなので惹かれてやってきただけなのだ、と言いたい気持ちに駆られた。女の子に惹かれてその女の子に着いていくなんてことはしないけれど、たこ焼きならば話は別だ。だから、そういう誤解をされると僕としては本当に困る。

まぁ、そう思われていたのかどうかを確かめる術はなかったのだけど、これ以上周りでウロチョロしていたら確実に怪しまれると思ったので、たこ焼き追跡を辞めた。

 

よく、「たこ焼きにタコが入ってねぇじゃねぇか」なんて怒っている人がいるけれど、僕としては「たこ焼きにタコが入っていようがいまいが美味しい」と思っている。そりゃ確かに、たこ焼きにタコが入ってなかったら、それはある種のウソであり、許されざることではある。

しかしだね、たこ焼きの魅力とは中にタコが入っていることに非ず、五感に訴えかける、その全てのファクターに魅力があるのだ。

たこ焼きにタコが入ってないから怒る、ということは、それはつまりたこ焼きの中にタコさえ入っていればいい、と言うことだろう? そうじゃなかったら、「たこ焼きの中の長芋がなってない」とか言う怒り方があって然るべきなのに無いだろう? やはり、普通の人からしてみれば、たこ焼きの重大なファクターと言うのは"タコが入っているかいないか"であるように僕は感じている。


たこ焼きをいざ実際に買って、帰りしな、たこ焼きの匂いが鼻をかすめた時のあの幸福感…。そういう幸福を僕は、とある作家の言葉からこう言い表している。小確幸(小さいけれど確かな幸せ)である、と。

そういう小確幸をどれだけ幸福なものかと取れるか、そして小確幸をどれだけ確かな形として取れるのか。それが大きな幸せへとなっていくんじゃないのかな、なんて思う。

僕にとってのたこ焼きがそうであるように、あなたにもきっと……あるでしょう?

久しぶりの更新は、過去のブログに載せようかと思ったけれど、お蔵入りとなってしまった原稿です。

結構昔に書いたことなので、所々おかしなところがあるかとは思いますが、気にせず読んでください。一つだけ書くとするならば、『ラジオ』というのは、僕が昔放送していたネットラジオのことで、同時に出てくる『キクチ』と言う人は、そのラジオの初代相方のことです。

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僕は本をよく読む。それも雑多な作者の色々な本を----というわけではなく、かなり偏った本の読み方をしている。

例えば、僕が最も敬愛して愛読している作家と言えば----昔書いたような気がするけど----某Mと原田宗典。この二人の本はかなり熱心に読んでいる。キッチンを見ればその人の人となりが分かるというけれど、それだったら本棚を見ればその人の価値観、世界観、考え方はある程度は分かってしまう。つまりは僕の思考、思想はこの二人に端を発するもの、ということだ。

最近本を読まない人が増えてきていると聞くが、確かにその通りだと思う。僕の周りの人間で本を読んでいる人は少ない。というかまぁ、分かっているとは思うけど、僕の周りの人間なんてたかが知れているし、そんなに多くない、というより、かなり少ないので参考にもならない。

どうして本を読まないのかなぁ、と考えて思い浮かぶことと言えば、やはりマンガやアニメの普及率が影響しているんじゃないかと思う。

もう活字から情景を想像する時代は終わってしまったのかもしれない。マンガやアニメは直接目に訴えかける類のもので、今の世界はその類のもので成り立っている。

僕は断然活字派の人間なのでマンガやアニメの肩は持たない。というか僕はマンガやアニメはあまり見ない。

活字を読んで面白いと感じる人は多分、想像力が豊かな人じゃないかと僕は常々思っている。

一行の文章から時に情景を思い浮かべ、時に人物を動かす。こうして文章にしてみれば一目瞭然だけど、活字を読むのに想像力は必要不可欠なものだ。

だからさっきの話題で言うと、どうして本を読まなくなったのかと言うと、マンガやアニメが普及してきたから、結果として想像力が欠落してしまったため活字離れが進んだ、と言えるのかもしれない。一概にそうだと言えるわけではないが、なかなかいい線をついていると思う。

自慢じゃないけど、僕は想像力は病的に豊かだ。だから本を読んでも僕の頭の中にはその文章の世界が簡単に広げられる。

エッセイなんかを読んで笑える人、というのは想像力が豊かな人じゃないと笑えないと思う。面白おかしく書かれた瑞々しい文章を頭の中で再構築する、そうするとエッセイなんかは凄い面白い。

まぁ、書き方によりけり、だけれど、原田宗典のエッセイなんかは想像力が病的に豊かな僕としては至極の面白さだ。本当に面白くて本を読みながら声を出して笑ってしまうくらいの面白さ。まさしく抱腹絶倒とはこのことだ。

この間のラジオ放送の時に、相方のキクチと原田宗典の話で盛り上がった。平気でリスナさんを置いてけぼりにしたことに関しては悪く思うけど、僕らはそういう話題の振り方をするのでそれはしょうがない。

閑話休題、原田宗典の話である。

僕は原田宗典のエッセイの7,8割は持っている、と言った。

だけど、調べていくうちに意外にも多くのエッセイを出していることが発覚して、結果、僕の持っている原田宗典エッセイの数は全体の5,6割くらいに減ってしまった。まぁ、それでも多いと言えば多いけど。

僕は常に本屋に入り浸っているのだけど、僕のよく行く本屋は新潮社と集英社と講談社と角川文庫くらいしかないので、原田宗典に関して言えば、新潮社と集英社と角川文庫しか調べようがない。講談社からは出してない。

おまけに僕は文庫が大好きなのでハードカバーとかは滅多に見ない。

以上のことから僕は新潮社と集英社と角川文庫の文庫本しかチェックをしない、というわけ。

だが実は、原田宗典は他の出版社からも出していることが先日発覚した。確か小学館とか幻冬社から出していることが分かった。

ここで買わなかったらファンじゃない、ということで早速本屋に行って来た。でも、さっきも書いたけど、僕の入り浸っている本屋は品揃えが良い方ではないので、もっと遠くの品揃えがかなり良い本屋に行って来た。そこに行くと目論見通り、幻冬社はあったのだけど小学館は無かった。というより、疑問に思うのは小学館から文庫本が出ていたのかどうかを僕は知らないのだけど、確か無かったような気がした。でも話を聞く分にはあるらしいから、僕が世間知らずなだけだったようだ。

その品揃えのかなり良い本屋でも全体の一部しか売ってなかった。しょうがないので、また他の大型本屋に行くことにする。僕は本にだけは金をかけるし、情熱も傾けるので本に関してだけは凄まじい行動力を発揮するのだ。

原田宗典ファンとしては全ての本を読みたいところだけど、僕が好きなのは原田宗典のエッセイだ。原田宗典は小説も書いていて、僕も何冊か持っているのだけど、やはり彼の真骨頂はエッセイにある。というよりかは、エッセイの書き方が鮮烈すぎて、小説を読んでもエッセイのような書き方を期待して読んでしまうのだ。これは読み手の問題----というより僕の問題----なのだけど、小説を読んでいて、あ、彼ならここで面白おかしく話を展開するだろうな、という思いを勝手に抱いてしまう。でも小説であんな文章を書くのは至難の業だから実際には僕の思わんとする文章は書いてない。そのことに軽い失望感を感じてしまう。

でも、この僕の考え方は間違えている。エッセイはエッセイなりの書き方があるし、小説には小説の書き方がある。その書き方を統一して考えようとする考え方が間違えてないわけがない。しかし、実際のところはそんな理屈は無視されてしまう。やはりエッセイがあまりにも面白いので小説もこんな書き方をしていればなぁ、と勝手に思ってしまうのだ。これはやはり問題である。

だからこの際はっきりと断言しちゃうけど、僕は原田宗典のエッセイが好きなのである。辛口表現で言うならば、エッセイは原田宗典、小説は某M、というように僕は分けて読んでいる。まぁ、某Mはエッセイも書いていてそちらもかなり面白いのだけど、ここでは割愛する。それについて書くとこの話の論点が支離滅裂なものになってしまうので、書かない。

キクチに「そこまで原田宗典のファンだったら是が非にでも全てのエッセイを読んで欲しい」と言われた。安直に賛同するわけではないけれど、確かに僕もファンの一人として全てを見たいと思う。だからこそ僕は原田宗典のエッセイのために東奔西走しているのである。この努力を勉学に注ぎ込んでいたら僕は今頃(まだはえぇか)立派な哲学者になっているだろう。でも僕は哲学者になる気はないので別にどうでもいいと言えば本当にどうでもいい。


ここで本を読むことの宣伝をするけど、本を読むのはいいものですよ。確かに活字ばかりで初めはつまらないかもしれないけれど、それは面白い本に出会ってないからだと思う。本の世界も人間社会と同じように、何かの巡り合わせで面白いものに出会えれば単純に好意を寄せられるようになる。

僕の例で言うと、僕は昔から本を読んでいてその歴史はかなり古く、小学生の頃から読書の習慣が身に付いていた。誰かに読むように言われたわけじゃなく、自発的に読んでいた。

小学生の頃はコナンドイルの「シャーロックホームズ」シリーズをよく読んでいた。中でも大好きだったのが「踊る人形の謎」でこれは5,6回は読んだ。

まぁ、あまり本の内容について書くと読者を置き去りにした文章になってしまうので割愛するけど、小学生の頃は推理ものを読んでいた。

僕だけに限ったことかどうかは知らないのだけど、僕は成長と同時に読む本がまるっきり変わることがある。そのときの思想によって読む本が全く違っているわけだ。でも、考えてみればこれは読んだ本の影響で思想が全く変わることでもある。鶏と卵みたいで先はどちらか分からないけど、そんな感じだ。

今ではシャーロックホームズは読まない。というより推理ものは倦厭している。なんとなく僕の読みたい本とはかけ離れた次元にいるような気がしてしょうがない。まぁこれも偏見だけれども。

中学、高校で今の僕の本の好みの礎を築いた。原田宗典のエッセイ、某Mのエッセイ、小説、色々と読んで今に至っている。

だから僕にとって面白かった本は小学生の頃に読んだ「シャーロックホームズ」シリーズと中学の時に読んだ原田宗典のエッセイ、ということになる。これらがあったお陰で今の読書好きになれたのだから感謝してもしきれないくらいである。僕はそれだけ本が好きなのだ。

またしても僕だけに限ったことかどうかは知らないのだけど、本を読んでいると想像力が豊かになる、ということを書いた。だから人と会話していても人が話していることについての情景が頭の中に勝手に構築できるということが出来るようになる。本を読んだから想像力が豊かになったのだ。まぁ、僕の場合元々想像力が病的に豊かだったのかもしれない。またしても鶏と卵みたいでどちらが先か分からないけれど、どちらにしても大差ないからどちらでもいい。

それに、文章からどんな人間かを判断する力、文章を読みとる力も養える。

僕もこうしてサイトで文章を書いているけれど、知り合いも、知り合いの知り合いも、知り合いの知り合いの知り合いもこうしてブログなりサイトなりで文章を書いている。

それらの人達の十人十色な文章の面白さをランクわけでできる。

僕は勝手にランク分けしている。やはり面白い文章は読みたいし、面白くない文章は倦厭したい。だから勝手にランク分けしている。一つ断っておくけど、僕は別にどこどこのサイトが面白くない、とか言ってそのブログの題名やURLを書いたりはしない。そういうのはフェアじゃないと思うし、そういうことはしたくもない。だから名前やHN、その他の情報は載せたりはしない。

ランク分けにも種類があり、

○やたら基本能力が高いんだけど、それ以上は伸びないタイプ

○最初は非道かったけれど、成長と共に伸びていくタイプ

○最初から基本能力が高いのにも関わらずさらなる発展が望める天才型タイプ

○最初がかなり後ろ過ぎるし、伸びもしない。はっきり言って文章を書くべきじゃないタイプ

とある。

判断の基準を明確に示せなんて言われてもそんなの文章として書くのは難しいから書かない。これは僕の経験にもとって判断していることだから文章では表せない。

一番多いタイプとしては上二つ。

基本能力が高いんだけど成長しないタイプと基本能力が低いけど成長するタイプ。この二つが一番多い。

やはり、文章を書くというのは才能と努力で書くものなので、基本能力が高いのは比較的才能があるタイプ。成長するタイプはそういう才能を秘めているか、もしくは努力で伸びるタイプ。努力というのは「慣れ」と置き換えても間違いではない。文章を書くのに慣れは必要である。

勿論中にはこの二つだけじゃなくて、上に挙げたランクの下二つに位置する文章もある。最上級に上か、最上級に下かのどちらか。僕も人のことを言えた義理ではないけれど、たまにいるんだ、筆力も無いし、何を書きたいのかも分からない不毛な文章が。そういう人は何を持ってしてブログやHPを公開しようかと思ったのか知らないけど、多分世の中の流れに乗っただけであろう。

成長すればいいんだけど、ずっと見てもまったく同じ書き方で、何を書いているのかもまったく分からないという文章がある。そういうのは見る気力もまったく沸かない。別に僕はその人の先生ではないので、そんなブログはなるべく見ないようにしてる。何ヶ月かに一回見て、「あぁ、まだ成長しないんだ」とか思うことになる。

さっきの話に戻すけど、基本能力が高いタイプと成長するタイプが多いと書いたけど、多分、基本能力が高い人間は本を読む力がある人だと思う。成長するタイプは吸収する力がある人。僕は本を読んでいる人に関してはとても好感を持てるので、そういう人達のブログはずっと見る。

 

僕は長いこと本を読んできたから、僕なりのランク分けをすることができる。これは経験がものを言うことだと思っているから本を読んでいて良かったなぁ、と思っている。いやはや本当に本好きで良かったですよ。この運命の悪戯には凄いうれしさを感じる。神様も粋なことをしてくれた。

さっきも書いたけど、本が嫌いな人----活字が嫌いな人----はまだ自分が面白いと思える本に出会ってないだけだと思う。早く活字が好きになってくれると僕も嬉しい。そういう人と知り合いになるのは良い。

僕みたいに偏った愛し方をしろとは言わないけど、好きな作者が出来たらその人の本を読んで、読書の奥深さを味わってもいいと思う。

当然、本が嫌いな人に無理矢理読ませるなんてことはしない。そういうのは悲劇以外の何物でもないし、そんな極端なことはしたくない。

ただ、本を読んでいる人の方が僕は好きだし、話が合う。ボキャブラリーも豊富だし、会話力も高い。そういうことを考えると本を読んでいて良かったなぁ、としみじみ思う。

今の僕の目標は原田宗典のエッセイを全て制覇することだ。原田宗典のエッセイに裏切られたことはないから、その目標は意義のあるものだ。本当に面白いから興味を持った人は読んでみることをおすすめする。僕みたいな想像力が病的に豊かでバカな話が好きなら好きになれるはずだ。

大事なのはフランクに読もうと思えるその心意気。あとは少量の想像力。

本を読んで本の世界の中で想像力を逞しくしてください。かならずいいことはあるはずだと信じて。

今僕は、砂糖さんと言う女の子とコラボレーションブログを管理している。コラボと言っても、そんな大それたことはしてない。ただ、交換日記的なことをやっているだけだ。人材と少しだけのやる気があれば誰でも出来る。


それにしても、砂糖さんと僕の関係というのもどういうものなのだろう、と考え始めるとなんとも難しい関係だ。

コラボレーションをしていると言うのに、僕は砂糖さんのことを全く知らない。唯一知っているのは、女の子で変人だ、ということだけしか知らない(とは言ってもその真偽は確かなものなのかどうかも分からないのだけど)。本当にその他のことはほとんど知らない。

そんな相手とコラボをしているのだ、と考えると、世の中何が起こるか全く分からない。僕は今まで、色々な人とタッグを組んで色々なことをやってきたけれど、ほとんど知らない人とタッグを組んだことはない。それが僕らにとっては自然なことだったのかもしれないけれど、何とも奇妙なものだ。

砂糖さんと僕の更新頻度はとてつもなく多い。大体週に5~6日くらいは書いている。だから、一人頭に換算すると、週に2~3回はそれぞれ更新していることになる。これはとてつもなく多い更新頻度だ。しかも8日間毎日更新していたことだってある。参考までに言うと、僕は自分のブログを週に1回くらいしか更新してない。それがコラボブログでは週に2~3回(月に8~12回になる)も更新していると言うのだから、その格差は物凄いものであると僕は思う。と言うか普通の人は思うんじゃないのかな。

砂糖さんとルールを決めるとき、更新頻度についてはあまり触れてない。適当に、書いたら更新すればいいですよ、と僕は言ったけれど、それだって週に1,2回更新すればいいんじゃないのかな、と思っていた。いや、二人で1,2回ね。だから一人頭週一で更新すればいいと思っていた。

だけど、蓋を開けてみると、週5,6回更新、という超驚異的更新頻度となっていた。

砂糖さんがどういう心持ちで更新しているのかは勿論知る由もないのだけど、僕は、課題を与えられたら、さっさと書き上げないと気が済まない。何だか、テーマを与えられると落ち着かないので、とっとと書いてしまう。

だから、テーマを出された日の夜、もしくは翌日に書いて、よしよし、これでいいや、と思って、最後に、書いたものを見直して細かいところに手直しを加える。そして、手を加えて、これでOK、と判断されたら、そのままアップしてしまう。

そうすると、砂糖さんが書いた翌日に、僕の文章が載ることになる。さっさと書かないと気が済まない、という性癖を持っているがために、結果的に更新頻度が上がることになったわけだ。

でも、僕個人のことを言えば、テーマを与えられて書くというのは好きなので、毎回結構楽しんで書いている。難しいテーマを与えられると、脳天気な僕も、ムムム…と思うし、比較的簡単なテーマだと、新たな書き方を模索しながら書いたりしている。

何にせよ、僕が書くべき文章と言うのは、"ヤスらしい文章"と言う文章だ。異なった二人の思考を較べるときに、何に着目するかと言うと、それは、それぞれの個性の差異にあると僕は思っている。それぞれ異なったところがあるからこそ、面白味を見出せるものなのだ。だからこそ、僕は僕らしい文章を求めて書いている。

それでなくても、僕は普段の生活でも、僕らしい生き方を模索し続けて生きている。僕らしい生き方で、僕らしいものの見方で、僕らしい感じ方で、この世に於ける全てのものと向き合おうと思っている。そんな僕だから、唯一の自己表現方法である文章でも、自分らしさが出せたらいいな、と思って書いている。

これは僕の思い描いている、単なる僕の指針と言うか文章のあり方だと思っているので、砂糖さんに対して押し付けたりする気は全くない。砂糖さんは砂糖さんなりの文章の書き方で文章を書いていけばいいと思っているし、そういうのは僕がとやかく言うものではない。この手のサイトの面白さは、二人の文章の差異にある、と言ってしまった手前、砂糖さんらしい文章を書いて欲しいと思っているけれど、それらのような書き方は砂糖さんが決めることであり、見つけるものでもある。

砂糖さんが見つけているかどうかは知らないけれど、もしも、これから先、コラボブログを続けていくつもりなら----見つけてないのなら、という前提はあるけれど----見つけて欲しいものだ。見つけられているのならば、何も言うことはありません。そのまま書き続けてください。

ただ、一つだけやって欲しくないことを挙げるとするならば、文章を義務的に書くと言うこと。

僕は何も、テーマを出して、強制的に書け、とは言わないし、テーマを出されたからと言って義務的に文章を書いて欲しいわけでもない。自己を肯定するわけではないけれど、僕が出す"テーマ"と言うものについて、何も義務的に、強制的に文章を書く必要は全くないのです。

義務的に文章を書くことは辛いことだと思う。僕はそんなことはさせたくないし、させる気もない。砂糖さんがどう思っているのかは知らないけれど、辞めたかったら辞めればいい。続けたければ続ければいい。もし、何か考えがあるのなら僕に言ってくれると助かるんだけどね。僕の個人的な意見を言うならば僕は続けたいと思っているけれど、だからと言って義務的に書かれるのはあまり良い気持ちはしない。

自由意思で書いて欲しいと僕は思っています。何も強制的にすることはありません。余計なお世話かもしれないけれどね。


大体週5~6回は更新しているわけだけど、更新するたびに思うのは、人ってかなり違う考え方を持っているんだなぁ、と言うことだ。でも、今ままでのを見た限りでは、僕と砂糖さんの考え方って結構相通ずるものがあるような気もしてくる。何となく似ているような気がしないでもないんだよなぁ、と言ったレベルかな。

だけど、それは砂糖さんが書く文章の質と言うものが似ているというだけのことであって、性格の質が似ているわけではないのかもしれない。ようは、文章のみが似ているだけかもしれない、ということ。そんな性格のことなんて分かるわけないじゃないか。

これから先も、コラボブログがずっと続くのかどうかは分からない。先のことなんて知ることは出来ないんだ。マスター・ヨーダでさえも、未来を見ることは出来ない。ヨーダに出来ないことを僕が出来るわけがない。

コラボブログを続けるのであれば、僕が取るべき道はただ一つだ。さっきも書いたけれど、僕らしい文章で書き続ける、それだけだ。それこそが僕が出来る唯一の方法だ。僕にはそれしか出来ない。いや、それだけ出来ていれば充分だ。僕の思い描く、コラボブログの世界の中では、それだけ出来ていれば充分だ。

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この原稿は、砂糖さんと共同管理しているコラボレーションブログ、「変人達の"へんなこらぼ"」の第100回更新記念のときに書いた原稿です。

どんな文章にしようかと考えていって、「あれも書こう」「これも書こう」とたくさんの書きたいことを頭に浮かべて書いたら、そのうちの幾つかを書いたり書かなかったりしてしまったので、書きたいことが幾つか細分化されて残ってしまった。それをこのまま無かったことにするのは勿体ないから、と文章にしたのがこの原稿だった。

この原稿は僕が書きたかった原稿の一部であり、「変人達の"へんなこらぼ"」に載せた原稿も書きたかったものの一部、と言うことになる。つまり、二つを合わせたものが本当に僕が書きたかったことだったのだ。だけど、この二つに別れてしまい、それらを融合することは出来なかった。融合するスペースが無かった。

二つで一つの完成形であるにも関わらず、一つ一つが完成してしまっていたのだ。

しょうがないから、もう一つはこっちのブログでアップしようと言うことでこの原稿は日の目をあたることになった。もしも、このブログでアップしなかったら永久に無かったことにされてしまっていただろう。機会と場所があって良かったよ。

だから、この文章と「変人達の"へんなこらぼ"」で載せた文章とのどちらが正しいとかそういうことはない。どちらも僕が書きたかったことだったんだ。ただ、書く段になって、幾つかのネタを書きそびれてしまったんだ。あまりにも多くのネタを書こうと思うとよくあることなんだけど。

そんなわけで、これは二つで一つの完成形である文章の片割れです。もし良かったら、「変人達の"へんなこらぼ"」で載せた文章もあっちはあっちでかなり言いたいことを書いたので見てください。

『二つで一つの完成形』

僕は生物学上、男に部類されて、さらに男の中でも大人の男に属している。これは表面的な話であって、内面のことを言っているわけではないことをまず断っておかないといけない。内面のことを正確に表すと、僕はどちらかと言うと女脳だし、さらに子供っぽい部分も少なからずある。

閑話休題。話が横道に逸れた、男に属しているという話だった。

体のつくりは男の体そのもので、僕の体を見せた限りでは、「この体は女の方の体ですか?」なんておポンチなことはまず聞かれない。どこからどう見ても男の体である。体のシルエットが直線体で描かれていて、がたいもガッシリとしている。どこからどう見ても男の体である。

だから、僕には俗に言うむだ毛というものが生えている。髭から始まり、腕の毛、脇毛、すね毛、要所要所に生えそろっている。

女性の方にはまず分からないと思うんだけど、男はハゲという言葉に殊更敏感なのだ。女性の方はまずハゲる心配がないからすごく楽観的に「うわ、うっそぉ、ホントに薄くなってるぅ」なんて騒いだり「あなた薄くなってきてるわよ」というような180km/hの直球ど真ん中のボールを投げ放つように平然と言ってくる。これが男同士だとしたら、まずそんなことは言わない。男の心には根底で一つの不安が存在している。

言うまでもなく、「もしかしたら俺も将来はあぁなるかもしれない」という不安が常に付きまとう。親は禿げてないから大丈夫だ、なんて思う人はそんなにいない。どの男も、「親は禿げてないけど、じいちゃんは禿げているからなぁ、隔世遺伝ということもあるし…」と言うようにネガティブ極まりない考え方をしている。このことに関してポジティブに「俺は禿げてもいいもんねー」なんて言う人はなかなかいない。やはり禿げるのは嫌だし、出来ることならばそうはなりたくないものだ。

僕は世間的に見るとまだまだ若いので、禿げてはないのだけど、禿げるということは死ぬことと大差ないような気がしてならない。これは最早「死」と同じ使い方である。男は最終的に死ぬ。男は最終的に禿げる。最終的に迎えるべきものなのだ、これは。

だとしたら、人生とはなんと儚いものなのだろうか。今こうやって生えているのに何十年後かには無くなってしまう。努力し、積み上げてきたものは原形をとどめることなく崩れ去ってしまう。まぁ、極端な話が人生なんてそんなものなんですけどね。世の中は基本的に不公平・不平等なものなのだ。殊更、時の進みというのは尚のこと。

なんだか話が暗い方向に行ってしまったけど、僕はネガティブな考え方は否定はしないけど好きじゃないので暗い話はもう辞めます。


前記の通り僕も男なのでむだ毛が生えている。

すね毛の話なんだけど、最近生え際が前進してきた。

後退じゃなくて、前進。

僕は今まで何十年と生きてきたけど、生え際が後退してきた、ということは聞いたことがあるけれど、生え際が前進してきた、ということは聞いたことがない。何ヶ月か前までは確かにこのラインを越えていることはなかったのだけど、今見ると確かに前進してラインを超えて生えてきているのだ。

もしかしたら僕があまりに世間知らずなだけなのかもしれないけど、僕は今まで生え際が前進したことなんて聞いたことがない。そりゃあね、毛が生え出す小中学生のころならいざ知らず、いい年こいた大人の男の毛が前進してきたなんて聞いたことがない。まるで、戦争をしているかのように僕の毛達は生えてない部分に向けて進軍してきた。いや、戦争なんて適切な喩えではない。これは、開拓だ。何も無い部分に新たなものを作り出す、つまり、何も生えてない部分に新たな毛根を生やすということだ。僕の毛達はフロンティア----開拓者----だ。

そんなフロンティアの仲間達が僕の足には密集して生えている。そう考えるとこの毛達は何か大いなる意志のもとに生まれて来た、選ばれし民のような気がしてならない。それはジャンヌダルクのように、それはモーゼのように、それはアナキンスカイウォーカーのように、僕の毛は選ばれし民なのではないだろうか。それらの選ばれし民は、二つの大きなプログラミングによって動かされている。一つは「新たな毛を生やす」。もう一つは「生やす役目を担うものを補助する」。だから多分、今開拓している最前線に立つ毛は前者に属して、その他大勢の毛は後者に属しているのではないだろうか。

フロンティア達はどこまで耕すのだろうか。僕は彼らのホストだと言うのに彼らの意志については全く知ることが出来ない。いつの間にか前進して、いつの間にか休憩している。そうして仲間を徐々に増やしていっているのだ。フロンティア達の意志は僕は知らない。彼らが生えてきたときから、いや彼らが生える前から彼らにはプログラミングされた意志を持って眠っていたのだ。それは当然僕に施されたプログラミングとは別だ。だから僕には彼らの行動意義、行動哲学は分からない。逆を言えば、彼らだって僕の行動については分からないということだ。

僕のむだ毛にはそんな意志を持った毛達が生えている。今のところ彼らのプログラムが目覚めたのはすねだけだけど、もしかしたら腕や脇も目覚めてフロンティアになるかもしれない。でも、そうなったら困る。これが髪の毛が目覚めてフロンティアになって前進してくれるってならいいんだけど、全世界的に見てそんなことはあまり無いだろう。でも、僕のすねの毛は目覚めてフロンティアになってどんどん開拓して前進してきた。もしかしたら、頭も…なんて望みを持ってしまうのはこれまた男の人情というやつである。


そんなわけで、フロンティアとなった選ばれし民は今も僕の中から生えてひっそりと生き続けている。でも、僕の毛達が選ばれし民だって言われてもちっとも嬉しくない。そのホストである僕は選ばれし民じゃないのかよ、って思うけど、そればかりはしょうがないか。

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